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PlayStationが成功したのは,バーチャファイターのおかげ――元祖“次世代ゲーム機戦争”の現場で,PlayStation事業の当事者達は何を考えていたのか。SCE創業メンバーが当時を振り返った「黒川塾(弐)」レポート
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印刷2012/09/04 00:00

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PlayStationが成功したのは,バーチャファイターのおかげ――元祖“次世代ゲーム機戦争”の現場で,PlayStation事業の当事者達は何を考えていたのか。SCE創業メンバーが当時を振り返った「黒川塾(弐)」レポート

 2012年8月31日,メディアコンテンツ研究家の黒川文雄氏が主催するトークイベント「エンタテインメントの未来を考える会 黒川塾(弐)」が,東京都内で開催された。同トークイベントは,セガ,デジキューブ,KONAMIなどに籍を置き,ゲームを含めたエンターテイメントビジネスに深く携わってきた黒川氏(現在はNHN Japan所属)が企画・主催しているもの。
 第2回となる今回は,以下に記すソニー・コンピュータエンタテインメント(SCE)の創業メンバー3名をゲストに迎え,当時の“PlayStationという革新(イノベーション)”が何を意味し,そしてそれは,今後のゲーム業界にどのようなヒントを与えてくれるのか,といったテーマでトークが繰り広げられた。

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 3名のゲストについて,もう少し紹介しておくと,丸山氏は旧EPIC・ソニー(現エピックレコードジャパン )の創始者で,SCEの立ち上げにも大きく関わり,のちにSCEの取締役会長を務めた人物だ。
 赤川氏もSCEの初期メンバーの一人としてPlayStation事業に携わり,SCEの制作子会社アークエンタテインメントを発足。プロデューサーとして「アークザラッド」シリーズなどを手がけた実績を持つ。
 藤澤氏は,EPIC・ソニーの仕事をきっかけとして,SCEの立ち上げに参画。PlayStaionの起動音作成を始め,サウンドドライバーの開発から,制作部門の全般的なサウンドプロデュースを行った。主なプロデュースタイトルは「DEPTH」「パラッパラッパー」シリーズなど。
 黒川氏を含め,いずれも音楽業界出身であることが,今回のトークの大きなポイントの一つでもある。

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メディアコンテンツ研究家 黒川文雄氏
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ラルクス 代表取締役 赤川良二氏
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247Music 取締役会長 丸山茂雄氏
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T.C.FACTORY 取締役 藤澤孝史氏


そもそもの始まりはスーパーファミコン用CD-ROMアダプターの開発


 トークの最初の話題は,PlayStation以前のゲーム業界について。1980年代から1990年代初頭にかけては,任天堂の天下であり,セガのようなカウンター的存在はあったにしても,基本的にファミコン/スーパーファミコンの座を奪うような“次の世代”の登場は誰も考えていなかったと,赤川氏は語る。

 それはソニーも同じで,当時の同社は任天堂とともに,スーパーファミコン用のCD-ROMアダプターを企画・開発していた。ちなみに任天堂との交渉を行ったのは,のちに“PlayStationの父”と呼ばれる久夛良木 健氏。そもそもソニーと任天堂の縁は,スーパーファミコンに久夛良木氏の開発した音源チップが搭載されたことに始まっていた。
 このアダプターの企画が通った件について,丸山氏は,「久夛良木さんがあまりにもしつこくて,任天堂も(断るのが)面倒になったんだと思います。これはもう,間違いない」と苦笑していた。

 さて,無事に任天堂に企画が通ったので,ソニーは実際にアダプターの開発に入るわけだが,当時の同社はあくまでハードの会社であり,CD-ROMの中身――すなわちソフトを作れる部署がなかった。そこで久夛良木氏が,ソニーグループ内で唯一(?)ゲームを手がけていた,当時のEPIC・ソニーの社長であった丸山氏に相談したのだという。

 そうして出来上がったのが,「フォルテッツァ」と呼ばれるタイトルだ。このタイトルは,CD-ROMからデータを読み込み,スーパーファミコンを通して映像を展開していくというソフトで,制作を担当した赤川氏は「このタイトルが発売されていたらどうなっただろう,と今でも考えます。……でも,やっぱり駄目だったかな」と振り返る。ちなみに,この「フォルテッツァ」を制作していた開発機材のコードネームが“PlayStation”だったそうだ。
 ハード,ソフトの両面で着々と開発を進めていたソニーだったが,1993年に北米で開催されたCES(Consumer Electronics Show)にて,想像もしなかった事態が発生する。これは有名な話だが,任天堂がスーパーファミコン用のCD-ROMを「フィリップスとともに開発する」と突如発表したのだ。
 つまり,ソニーは,任天堂との共同プロジェクトを一方的に破談にされ,多額の予算を投じて開発したハード,そしてソフトが全部台無しになってしまったのだ。
 ソフトの開発を担当していた丸山氏も,この時には怒り心頭。当時,任天堂との交渉役だった取締役の出井伸之氏を怒鳴りつけたという。ちなみに出井氏といえば,後にソニーグループの社長に就任した人物だ。丸山氏は当時を振り返り,「そのあと(1995年),出井さんがソニーの社長になったときは青ざめちゃったね」とコメントして,会場を沸かせた。

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ソニー独自のゲーム機プロジェクトをスタートするも,周囲の反応は冷ややか


 ご破算になったかと思われたCD-ROMアダプターのプロジェクトだが,「それでもやりたい」という久夛良木氏を中心に,今度はソニー独自のゲーム機開発プロジェクトがスタートする。このあたりの経緯は,当時,ソニーの社長だった大賀典雄氏が「Do It!」と久夛良木氏に言い放ったというエピソードとして,世間に知られるところである。

 印象的だったのは,ここで黒川氏が「任天堂に話を反故にされた怒りによって,久夛良木氏のさらなる情熱が呼び起こされたのではないか」と指摘した点に対して,丸山氏がそれを否定していた部分だ。

 「そういう解釈が一番分かりやすく,ストーリーとして面白いけれども,実際はそうじゃなかったように思う」
 「もちろん,悔しいという気持ちもあっただろうけれど,何よりも多良木さんは“やりたかった”んじゃないかな。それが真実でしょう」
 「だから,今度は(任天堂など他社が介在することなく)自分達の“本当にやりたいこと”ができる状況になり,むしろ久夛良木さんは『しめしめ』と思っていたかも」


と話す。このあたりは,一般的に言われてる言説(悔しくて奮起した)とはちょっと違った視点で,なかなかに興味深い。

 赤川氏もまた,当時の現場の状況について,スーパーコンピュータでしか実現できなかったリアルタイム3D表現を,コンシューマ機で再現することに向け,粛々と研究開発を進めていたと述べ,久夛良木氏を筆頭とするソニーの技術者達が感情とは別の次元にある,“自信”と“確信”によって動いていたと説明。
 藤澤氏も,PlayStationに搭載されたサウンドチップの基本構成が,スーパーファミコンのそれと同じであることに言及し,「培った技術を,きちんと新しいハードに落とし込んでいる。怒りとか夢ではなく,きちんとした計算がないとできないことです」と補足した。

 とはいえ,その当時のゲーム業界は,まさに任天堂の天下であり,いくつかの家電メーカーが独自のゲーム機を出してもパッとしない状況が続いていた。例えソニーがゲーム機を出しても,そうした家電メーカーと同じ結果に陥るだろうというのが,一般的な見解だったのである。
 当時,セガに在籍していた黒川氏も,ソニーがゲーム機を出すというニュースを聞いて驚くとともに,「向こう見ずなチャレンジ」だと思ったという。

 実際,丸山氏と赤川氏は,PlayStationのプレゼンテーションをするために,ゲームメーカーなど関連企業を回った際,セガの社長だった中山隼雄氏をはじめ,誰からも「いいハードであることは分かったけれども,悪いことは言わないから(ゲーム機のビジネスは)おやめなさい」と諭されたそうだ。

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PlayStationのコンセプトを明確にしたのは,セガの「バーチャファイター」


 そうした周囲の冷ややかな反応にも関わらず,PlayStationは多くのソフトを集めることに成功し,それがビジネスに繋がっていった。その点に関して黒川氏は,丸山氏と赤川氏の出自に着目し,音楽業界のA&R(Artist and Repertoire,アーティストの発掘・契約・育成と,そのアーティストに合った楽曲の発掘・契約・制作)の手法が,重要な役割を果たしたのではないかと推測を述べると,赤川氏は「完全にそうでした」と同意。また丸山氏は,音楽業界でのA&Rの経験から「(音楽でもゲームでも)モノを作る人たちに嫌われたら終わり」と述べ,ゲームメーカー/クリエイターに対しては,最大限のリスペクトを示すよう常に心がけていたと話す。

 その一方で,当事者の努力だけではなく,当時の業界的な流れがPlayStationを有利にしていたことも事実であると赤川氏は言う。
 当時,まさにゲームのグラフィックスが2Dから3Dへと移行する時期だったとはいえ,それは高価かつ高性能のハードを使えるアーケードゲームを中心とした話。コンシューマゲーム機では,「3Dグラフィックスはまだ時期尚早だ」と思われていた。ゲームメーカーにしても,今後どうなるか未知数のPlayStationのために,大きな予算を割いて3Dグラフィックスを駆使したゲーム開発に取り組むことは難しい。
 そこでSCEでも,PlayStationから3Dの看板を取り払って,「2Dグラフィックスのハードとして売り出すかどうか。真剣に検討したことすらあった」という。

 ――しかし。そんななかで,そういった世間の風向きを一変させるタイトルが登場した。セガの「バーチャファイター」である。

 丸山氏は,「いや,本当にそう(バーチャファイターおかげ)なんですよ」と当時を振り返る。
 というのも,ソニーのスタッフが各ゲーム会社を回りつつも,3Dグラフィックスでいったいどんな表現ができるのか。それを理解していた人間は,ソニーの中でも皆無だったという。
 「あえて言うなら,その辺をわかっていたのは久夛良木さんだけ。僕自身も,PlayStationで具体的にどういうゲームができるのか,全然分かっていなかった。分からないままプレゼンをしていたんですから」と丸山氏は語る。
 プロジェクト発足以来,暗中模索状態が続いていたソニー陣営だったが,皮肉にも,当時のライバルにあたるセガが出した「バーチャファイター」が,PlayStationにとっての,いや,ゲーム業界全体にとっての道しるべになったのだという。「バーチャファイター」が「3Dグラフィックスのゲームとはどういうものなのか」を,具体的に視覚化して見せつけたからだ。

 丸山氏は,「バーチャファイターの登場以降,一気にPlayStationの方向性が明確になった」という。実際,これは各ゲームメーカーにしてもそうだったようで,ぜひゲームを作りたいというメーカーも増えていったのだという。
 赤川氏も,「『バーチャファイター』がなければ,PlayStationはまったく違うコンセプトのハードになっていたかもしれない」と話し,丸山氏は「セガさんは,えらいタイミングで塩を送ってくれたんだよね」と,感慨深げにコメントしていた。

 また赤川氏は,ナムコ(現バンダイナムコゲームス)の「リッジレーサー」がローンチタイトルとして発表されたことも,PlayStationのビジネスに大きく貢献したと話す。繰り返しになるが,多くのゲームメーカーにとって,どれだけ普及するか分からないPlayStaion用のタイトル開発のために,予算を割くことは難しい。
 ほとんどの大手メーカーが「300万台普及する見込みがあるなら開発を検討しますが……」と尻込みするなか,「ナムコさんだけが,開発費を回収できるかどうかも分からないのにやってくれた」と,丸山氏は当時を振り返る。

 ここで黒川氏は,今だから話せる裏話として,当時,セガがSCEの戦略発表会で上映された,開発中のPlayStation版「リッジレーサー」の映像を,とあるルートから入手していたことを明かす。セガのAM2研は,その映像を見て騒然となったそうで,開発トップの鈴木 裕氏も「『リッジレーサー』がPlayStation上でここまで再現できるなら,我々も中途半端なことはできない」と語ったという。
 そして2か月後,セガは,当初の予定よりもさらにクオリティを高めたセガサターン版「バーチャファイター」を,自社の発表会で披露したのである。

 丸山氏は,そのエピソードを受けて,「あの何年かの“抜きつ抜かれつ”の熾烈さは,日本のビジネス全体を見渡しても,そうはないだろう」とコメント。赤川氏などは,少し先行して発売されたセガサターンの好調な売れ行きを見て,「PlayStationの成功に対する確信を深めた」と振り返る。

 ちなみに,この頃盛んに言われたPlayStasionとセガサターンの“次世代ゲーム機戦争”という構図は,当時,SCEの宣伝部長だった佐伯雅司氏の発案だそうである。
 とはいえ,現場では“勝った負けた”を意識する余裕はなく,ただただ「作りたいものを作った」「このハードでゲームを作りたいと,クリエイターに思ってもらえるものを作っていた」と,三氏。とくに丸山氏は,「始めちゃったから,あとに引くわけにいかなかった。チップを100万個発注して,支払いも済ませてしまったので,何が何でも100万台売るしかなかった」と,当時のシビアなビジネス的背景を語っていた。

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発売当初は,PlayStationならでは,SCEならではの要素を追い求めた


 さて,PlayStationは,1994年12月3日,実際にリリースされ大きな反響を呼ぶが,赤川氏は,その理由を高性能であることや,「リッジレーサー」のような看板タイトルを揃えられたことだけでなく,流通面にも大きな“改革”があったと話す。
 すなわちソフトにCD-ROMというメディアを採用したことにより,当時のゲーム機でまだ広く採用されていたROMカートリッジよりも,はるかに安価で,かつ迅速な市場供給が可能となったという指摘だ。
 「皆さんはもう忘れているかもしれませんが,PlayStationが出る直前というのは,ゲームソフトが1万円以上もしたんです。それを5000〜6000円という価格帯に持って行ったというのは,大きな功績だったと思う」とは赤川氏の言。
 また藤澤氏は,当時すでにCD-ROMというメディアが世に存在していたことを指摘し,PlayStationでは,そのメリットをきちんと活用して,製造から流通までの改革を「やりきった」ことが成功に繋がったのではないかと分析した。

 さらに黒川氏は,SCEがクリエイターの名前を前面に押し出してプロモーションをするようになったことも,それまでのゲーム業界にはない大きな改革だったのではないかと指摘する。丸山氏は当時,クリエイターの地位が世間に認知されていたことを踏まえ,「彼らが名前を出すのは当然」と考えたとのこと。またクリエイターに向けては,「ヒット作に名前が出たら,ミュージシャンのように,女の子にチヤホヤされるようになる」といった話をしたこともあったそうである。

 一方,赤川氏は,SCEの取り組みとして,“PlayStationらしい”ソフトを作り出そうとしていたことに言及し,その代表タイトルとして,藤澤氏の携わった「パラッパラッパー」を挙げる。藤澤氏は,同タイトルを“ミュージシャン/ゲームクリエイターの松浦雅也氏が作るタイトル”と位置付け,SCEはそのための環境を用意する役割という,A&Rの手法を強く意識していたという。
 ゲームとしての面白さを追求する過程では,PlayStationにできることと,松浦氏の音楽的センス/テクニックを引き出すことをとくに心がけていたそうだ。

 「パラッパラッパー」について藤澤氏は,「音楽業界で培ったものを旨い具合に転用できた。楽業界では“1”のものを,ゲーム業界に持ってくることで一気に“10”の価値に高めた例なのではないか」と説明。そうした事例を踏まえ,藤澤氏は,革新とは,まさに“人”そのものであり,いかにその人の可能性を伸ばす環境を用意できるかどうかがキモになるとまとめた。


変化する状況下でゲームが生き残り,文化として存続するためには


 ただ,PlayStationがそういった改革を実現できたのも,ハード/業界/ビジネスモデルのすべてに変革が訪れた「1990年代という時代だったからこそ」と,丸山氏と赤川氏の両名は語る。
 ゲーム産業は,20世紀終盤はひたすら“進化”が求められ,より美しいグラフィックス,美しい音楽を表現する技術が発展していった。ところが21世紀に入ってからは,そうした価値観にも変化が訪れる。
 iPodの大ヒットが示したように,多少は質が悪くとも,素早く手軽に楽しめることが求められるようになっていったのである。

 丸山氏は,「この流れは,食べ物でもクルマでも同じ」だという。そしてゲームでもそれは同じで,今は簡単で便利であることが重要になったと述べ,これまでリッチなものを追求してきた技術者やクリエイターが,方向性を見失っていると指摘する。
 藤澤氏も,「今は昔と違って,3時間もあればプログラムの一つくらい作れます。だったら,その便利な状況を,いかにクリエイティブへとつなげていくか考えなければならない。ある意味,こういう状況になってからが(クリエイターとしての)本当の勝負」と表現した。

 イベントの最後に,黒川氏は,登壇者たちに「今後,ゲームを含めたエンターテイメントはどうあるべきか」と問いかけた。

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 まず丸山氏は,テレビが登場したときに,ラジオや映画が廃れると言われたが,実際にはそうならず,立場や役割を少し変えて生き残っていることを挙げ,ゲームもまた同じだとコメント。
 氏は「今,どんなに苦しくとも,コンシューマゲームを作り続けることが大事。予算がないなら,以前のように湯水のように使うのではなく,きちんと考えるべき。そうすれば必ず生き残る」とし,「文化とは“続けること”。ただ儲かるものじゃなくて,その後にきちんと残るものが文化。文化として残したいなら,クリエイターは作り続けるべき」と述べる。

 藤澤氏は,中国で成功したという日本式のブライダルビジネスを例に挙げながら,「結婚する時に,親を呼んで演出すると,やっぱりみんな泣くんです。こういう部分は国境を越えたもの。何十年何百年と歳月が経とうが,世界のどの地域だろうが,物事の本質は基本的に変わらない」と話す。
 とくに総合的な表現のできるゲームは,そうした本質を組み合わせることで,より強い表現を生み出せる可能性があると氏は述べ,そういったアプローチを模索する若者はいつの世にもいることを指摘する。そして,彼らがきちんと活動でき,かつタイムリーにクリエイティブをリリースできるような環境を整えることも考えなければならないとまとめた。

 赤川氏が挙げたのは,“常に新しいものを考える”ことだ。ともすれば目先の利益に釣られてヒット作の真似をしてしまいがちだが,それでは中長期的に見たときに必ず売上が下がってしまう。「人は,一度も見たことがないものを目にしたとき,驚いたり感動したりするし,そこにお金を払ってくれるものだと思う。だから,常に“驚き”を提供することを意識しなけならない」と氏は語る。
 さらに実例として,自身が「アークザラッド」のテーマ曲にロイヤル・フィルハーモニー管弦楽団の演奏を採用したエピソードを披露した。当時はまだゲームミュージックが“ピコピコ”と揶揄されていた時代であり,その試みは多くの人に驚きを持って迎えられたという。
 赤川氏は,人々を驚かせるためのヒントはまだ世の中に多数存在しているとし,「(ソーシャルゲームにおけるマネタイズように)ここをこうすれば多くの人がよりお金を落としてくれると考えているだけでは,新しいエンターテイメントは生まれない」とまとめた。

 黒川氏は,イベントのまとめとして,エンターテイメントの歴史に言及。氏は,世の中にすごいコンテンツが登場すると,それが決定打で,もう打ち止めであるかのように思ってしまうが,いつも数年後には,それを塗り替える革新的なコンテンツが登場すると述べ,「その繰り返しがエンターテイメントの歴史である」とコメント。また,いつの時代でも,そうした革新を生み出す新しい人が出てくると展望を述べ,イベントを締めくくった。

 さて。この講演を聞いていて,個人的にとくに印象的だったのは,丸山氏をはじめとしたSCEの創業メンバーが,ことあるごとに「結局,ただやりたくてやっていた」という趣旨の話をしていた部分かもしれない。
 無謀とも言われた向かい風のなかで,なぜPlayStationが熾烈な競争を勝ち抜けたのか。イベント後の質疑応答にて,丸山氏が「確かに戦略は大事だが,そもそも『こうしたい』『オレはゲームが好きなんだから何があってもやり抜く』という強い思いが必要。その思いがなければ戦略なんて役に立たない」と語っていたことがとても記憶に残った。
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