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ビデオゲームの語り部たち 第18部:技術屋からプランナー,そして未知なる仕事へ。酒匂弘幸氏がタイトーで歩んだ挑戦の日々
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印刷2020/06/27 00:15

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ビデオゲームの語り部たち 第18部:技術屋からプランナー,そして未知なる仕事へ。酒匂弘幸氏がタイトーで歩んだ挑戦の日々

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 人生は面白い。偶然のめぐりあわせで構成されているように見えて,後から考えるとそれが必然と感じられることがあるからだ。

 今回の「ビデオゲームの語り部たち」は,タイトーで1980年代からアーケード向けレースゲームやガンシューティングのヒット作を世に送り出し,現在はあまたでゲーム以外のコンテンツも手がける酒匂弘幸氏にスポットを当てる。
 酒匂氏にコンタクトがとれたのは,前回登場いただいた小山順一朗氏の紹介があったからで,言ってみれば偶然の産物だ。けれども,連載の第1回で取材した東京・池袋のロサ会館が,タイトーの創業者,ミハイル・コーガン氏の助言によってオープンさせたゲームセンターで窮地を脱したことを思うと,タイトー関係者への取材は必然だったようにも思える。

 酒匂氏がタイトーに入社したのは1982年。「スペースインベーダー」のブームが過ぎ去った後ではあるが,タイトーのアーケードゲームの語り部として申し分のない人物だ。

酒匂弘幸氏
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自然に囲まれた田舎での幼少時代,そしてゲームとの出会い


 酒匂氏が生を受けたのは1963年のことだ。
 1960年代の日本は,池田勇人首相が打ち出した所得倍増計画や,東京オリンピックの開催に後押しされる形で経済が急成長し,高速道路や東海道新幹線が開通した。だが酒匂氏は,そんな喧噪から少し離れたところで,のんびりとした少年時代を過ごしたようだ。

 「北九州市の門司区出身です。目の前は海,振り向けば山という環境で育ちました。子供の頃は釣りが好きで,よくやっていましたね。
 駄菓子屋さんで売っていた50円くらいの釣りセットを持って,自転車で関門トンネルの人道(じんどう。歩行者用のトンネル)を抜けて山口県の下関まで行き,壇之浦の潮だまりでハゼとかフグを釣っていました。お金がなかったので,ザリガニとかゴカイをその場で捕まえてエサにしていました」

 酒匂氏の物作りへの関心は,その頃から強かったようだ。

 「第二次大戦中にビルマに出征していた祖父が,いろいろなことを教えてくれました。ワリバシを使ったゴム鉄砲を作れるようになると,祖父が小刀をくれて,それで竹を切って今度は竹鉄砲を作ったり。小学校5,6年生くらいになると,五寸釘をバーナーで真っ赤になるまであぶってから,叩いて伸ばしてやすりで削って,最後は砥石で研いで日本刀のレプリカを作って,ペーパーナイフにするといったこともやっていました」

 幼稚園に通っていたころから,プラモデルにもはまっていたという。

 「物の構造への好奇心が強かったですね。なので,時計を分解したのはいいけど,元に戻せなくなって怒られたこともありました(笑)。
 自動車にも興味はありましたが,地元には門司鉄道管理局(国鉄九州総局の前身)があって,鉄道ファンには馴染み深い地だったんです。この写真は門司鉄道管理局のあった門司港駅で撮ったものです」

幼少の頃の酒匂氏。氏の手元には昔の写真がほとんど残っていないという。あるとき,住んでいたマンションが台風で浸水してしまったためだそうだ
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 酒匂氏はそう言いながら,写真を見せてくれた。

 筆者は酒匂氏とほぼ同世代だが,1960年代生まれの中学生や高校生にとっての娯楽は,テレビにラジオ,マンガ雑誌が定番で,少し背伸びをして映画やレコードといったところだった。だがそれは,1978年にタイトーから「スペースインベーダー」がリリースされたことで大きく変わる。まさしく未知なる者の侵略だった。

 酒匂氏にも,ゲームとの出会いを振り返ってもらおう。

 「ゲームとの最初の接点は5,6歳のころ,祖母に連れて行ってもらったデパートの屋上です。門司にあった山城屋や,今も営業している小倉の井筒屋などですね。その頃のゲームはエレメカが主流だったんですけど,中学生時代の後半になると「ブロックくずし(※1)」とか,「風船割ゲーム(※2)」のアップライト筐体で遊んでいました
 タイトーの製品だと,Midway Games(※3)からライセンスを受けて生産された『ボールパーク』はよく遊びましたね。そうこうしているうちに『スペースインベーダー』が出てきて。初期のインベーダーは,左右への移動もボタンで行う3ボタン式だったんですよ。斬新さは感じたんですが,3ボタンでは難度が高かったせいもあって,当時はあまりプレイしませんでした」

※1 1976年にAtariよりリリースされた「Breakout」や,タイトーやナムコが同作をライセンス生産したゲームの通称
※2 1977年にExidyよりリリースされた「Circus」や,同作をタイトーがライセンス生産した「アクロバットTV」などの通称
※3 2009年に倒産したアメリカのゲーム会社


 「あまりプレイしなかった」とはいえ,「スペースインベーダー」は酒匂氏に強烈な印象を残したようだ。

 「初めて触れたときに,まず『音がすごい』と感じました。インベーダーの『ド・ド・ド』という移動音,『キーン,キーン』と耳に残るショット音などですね。トーチカがインベーダーの攻撃で少しずつ壊れていくようなところは,複雑なゲームだなと思いましたね」

「スペースインベーダー」(アップライト筐体)
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 「スペースインベーダー」は,オペレーターが導入前の新製品を試す展示会での客付きが悪かったようで,タイトーの上層部が「これは売れない」とボヤいたという話は有名だ。

 だが,それは酒匂氏の言葉からもうかがえるように,従来のゲームと異なる仕様や攻略法にプレイヤーが戸惑った,ということだったのかもしれない。
 筆者が初めてプレイした「スペースインベーダー」は,すでにレバーでの移動となっていたが,そのインパクトは今も忘れることができない。今見れば原始的なゲームだが,それまでになかったものが,そこにあったのだ。

 実際,導入後には全国のオペレーターからタイトーに追加オーダーの電話が相次ぎ,中には『在庫があれば高値でも購入する』というものもあったようだ。異業種からの参入も多く,インベーダーはあっという間に街を侵略し,やがて「ゲーム喫茶」なるものが生まれた。

 「TT(テーブルタイプ)がリリースされて,ゲーム喫茶などが現れてきたのは高校生くらいの頃でしたね。ゲーセンは暗くて,タバコで煙いところでした(笑)。『ゲームが子供をダメにする』みたいな論調も出始めたと思います」

「スペースインベーダー」(テーブルタイプ筐体)
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 「スペースインベーダー」にまつわる逸話はいくつもあるが,酒匂氏の地元ではちょっと変わったローカルルールがあったという。

「続けてプレイするために,テーブルに100円玉を数枚積み上げて遊んでいるんですけど,ゲームオーバーになったとき,後ろにいた知らないヤツが100円玉をすっと入れて『俺が入れたんだから代われよ』って。
 これは入れられちゃったらしょうがない,明け渡すしかないという……おそらく,九州独特のルールだったんでしょう(笑)」


予想外の連続でゲーム開発の道に


 酒匂氏は,やがて工業高校の電気科に入学した。

 「機械工作が好きだったので,メカエンジニアになりたかったんです。工場のラインで組み立てなどをやりたいと思っていました。その頃はゲーム作りを仕事にすることなんてまったく考えてなかったですね」

 だが,酒匂氏はこの頃に,後の仕事へとつながる技術を身につけている。

 「電気科で勉強をし始めたら,それまで嫌いだった数学や物理が好きになって,ラジオ部に入って,無線機を自作するようにもなりました。これが電子回路に触れるようになったきっかけですね。
 ちょうど,テキサス・インスツルメンツが開発したICチップの74シリーズTTLが出始めたころでした。学生だった自分には高価で多くは買えませんでしたが,いくつか手に入れてタイマーICなどと組みあわせて,かんたんなゲームを作成しました」

 酒匂氏はタイトーでバイクゲームの開発を手がけることになるが,“公私ともに長い付き合い”となるバイクにも,この頃出会っている。 

 「高校卒業間近になって原付免許を取りました。校則でバイクが禁止されてたんです。自分が入学する2,3年前まではバイク通学も可能だったようなんですけど,死亡事故が社会的に問題になることが多くなって,禁止になったようです。暴走族も出始めていましたね」

 仕事としてのゲーム作りを考えていなかった酒匂氏が,タイトーに入社したのはなぜだろうか。

 「たまたま学校に募集が来ていたんです。自分の知見を高めるためにも,地元で就職するのではなく,上京してみたいと思っていましたし,タイトーのゲームは実際に遊んで知っていましたから。
 会社案内を見ると,1979年にできたばかりのタイトー海老名工場が紹介されていて,ここでゲームを組み立てるのは面白そうだとも思ったんです。博多で入社面接を受けたらすぐに内定が出て,1982年に入社しました。その頃は採用バブルで,僕の入社年度だけで100人くらい採用されていると思います」

 工場でゲーム筐体や電子回路の組み立てをやるつもりだったという酒匂氏だが,意外な部署に配属となった。

当時のタイトー本社は千代田区の平河町にあった
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 「入社式の後で,技術部の部長に対面でいろいろと質問されたんですが,『パックマン好き? パックマンの内部構造って興味ある?』と聞かれて,『はい,興味あります』と答えたら,工場ではなくて本社(東京都千代田区)の技術部に配属されたんです。基板をいじったり,大きなハードウェアを扱うときは,横浜市の綱島にあったタイトー子会社のパシフィック工業に行きました。本社の技術部にも,まだワークステーションが3台くらいしかなかったんです。HP64000が2台と,モトローラMC6809のツール開発用があったくらいです」

 電子回路などには相応の知識やスキルを持っていた酒匂氏だったが,プログラミングについてはほとんど経験がなかったという。

 「パソコンはまだ高価なものでしたから,お金持ちの友達の家くらいでしか触れなかったですね。『MZ-80』や『PC-8001』でした。あとはマイコンショップのデモ機を触ったくらいです。
 なので,プログラミングは会社に入って,上司から渡された6809(MotorolaのCPU)のマニュアルブックで勉強したのが初めてです。
 先輩からも教えてもらいましたが,独学に近いですね。最初は苦戦して,とくに命令の組み合わせを理解するのに時間がかかりました。
 『コレとコレを組み合わせると,こう動く』というのが分からなくて,先輩のものを見よう見まねで覚えていった感じでした」

 1980年代から1990年代くらいまでの開発現場では,このような実質的に独学の“社員教育”は珍しくなかった。ある世代より上のプログラマーにとっては“あるある”ネタだろう。ゲーム開発自体の歴史が浅かったこともあり,誰かに聞こうにも分かる人がいない時代だったのだ。

 酒匂氏がタイトーに入社した頃のアーケードゲーム開発は,各社がこぞって独自基板を導入し,グラフィックスやゲーム性を高めようとした時代にあった。

 「技術部に入ったのは,ちょうどタイトー独自基板の『SJシステム』が導入された頃でした。『スペースクルーザー』(1981年),『スペ−スシーカー』(1981年),『アルペンスキー』(1982年)などがヒットしていましたし,タイトーだけでなくアーケードゲーム全体で見ても,いい時代だったと思います」

「アルペンスキー」は,制限時間内にコースのクリアを目指すスポーツゲーム(画像は「アーケードアーカイブス アルペンスキー」のもの)
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 酒匂氏が直接関わったわけではないが,その頃ヒットしたタイトーのタイトルには,印象深いものがあったそうだ。

 「本社とパシフィック工業を何度も行ったり来たりする途中で,『フロントライン』(1983年)のロケテストを見かけたのをよく覚えています。
 ロケテストの時の名称は『ビッグコンバット』だったんですが,“コンバット”が他社の商標に抵触することが分かって変更になったと記憶しています。『フロントライン』は結構ヒットしましたね」


幻のタイトー製ゲーム機プロジェクト


 酒匂氏がタイトーで初めて関わったプロジェクトは,意外にもアーケードゲームの開発ではなかった。

 「実は世に出ていないプロジェクトで,任天堂さんの『ゲーム&ウオッチ』のような携帯型液晶ゲーム機の開発でした。日立製の4bitマイコン(CPU,RAM,ROM,I/Oがワンパッケージ化されたもの)や,東芝製のIC(集積回路)を搭載したものです。システムを動かすソフトウェアは,渋谷にあるコアシステムという会社で作っていました」

「ゲーム&ウオッチ」の1機種を再現したニンテンドーDSiウェア「ゲーム&ウオッチ シェフ」(2009年リリース)。液晶表示がオンになっていない部分がうっすら見えるところまで再現されている
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 「ゲーム&ウオッチ」を触ったことがある人ならお分かりだろうが,当時の液晶ゲームは,ゲームボーイのようにドットの濃淡を組み合わせてグラフィックスを描くものではない。画面中に敷き詰められた絵のそれぞれを「表示させる」「表示させない」でゲームの動きを表現していたのだ。酒匂氏は「版画みたいなもの」と例えたが,確かに“絵を彫った版木の必要な部分にだけインクを塗って刷る”というイメージである。

 「そのシステム構造は,あっちのポートにアクセスするとこの絵,こっちのポートにアクセスするとこの絵が出る,というものでした。タイミング制御がゲームバランスの良し悪しに直結するので,そのあたりの調整を担当していました。 
 開発は主に基板と液晶パネルだけの状態で行っていましたが,樹脂製の筐体にゴム製ボタンが付いたワンオフのモックアップもあったんです。
 モックアップだとつまらないので,それを自分で工夫して,中に基板と液晶パネルを入れて,実機として遊べるように改造しました。まあ,それは自分の趣味として作ったんですけどね」

 だが,前述したように,このゲーム機は日の目を見ることがなかった。

 「そうこうしているうちに他社からも携帯ゲーム機が商品化されて,過当競争になった結果,タイトーの携帯ゲーム機は幻のマシンになってしまったんですよ。おそらく今のタイトー社員に聞いても知らないでしょう」

 幻のプロジェクトはもうひとつあった。据え置き型ゲーム機の開発だ。

 「携帯ゲーム機の後に,家庭用ゲーム機を開発するプロジェクトがスタートしたんです。その頃テキサス・インスツルメンツからリリースされた画面表示プロセッサのTMS9918とCPUのTMS9995を組み合わせてゲーム機を開発しようということになりました。発案した部長からは,チップのゲーム機への応用方法を勉強してこいと言われて,週1くらいのペースで当時表参道にあったテキサス・インスツルメンツの事務所に出向いて勉強していました」

 だが,これもまた製品化には至らなかった。

 「セガさんから出たSG-1000(1983年7月15日発売)が,内部チップに同じTMS9918を使っていると分かって,先を越されてしまったからやめようということになったんです。開発メンバーの基礎研究で終わってしまいました。そのまま開発を続けていたら,任天堂のファミリーコンピュータ(1983年7月15日発売)よりも発売は早かったでしょうね」

 その頃のタイトーがハードウェアを発想の出発点としていたことがうかがえるエピソードだろう。
 この2つのプロジェクトは途中で終わってしまったが,もちろん酒匂氏は他の仕事で結果を出した。それが1984年リリースのアーケードゲーム「Chack'n Pop(ちゃっくんぽっぷ)」だ。

 「部長がある日『東京大学のマイコンクラブがこんなゲームを作ったんだけど,移植できないか?』という話を持ってきたんです。それがChack'n Popの前身である「Chack'n Chack」でした。ベーシックマスターレベル3(日立製作所のPC)で動くものだったので,タイトーでライセンスを買ってアーケード向けに移植しようということになり,同期だった石岡 純君と作業することになったんです。プログラムは石岡君の担当で,僕はデモ映像などを作っていました」

 今で言うキャラクターデザインも,酒匂氏の仕事だった。
 
 「オリジナルのキャラクターがあまり可愛くなかったので,当時パシフィック工業に在籍していた千葉由美子さんに『なんか,かわいいキャラクターできないですかね?』と相談して出来上がったのが,ひよこみたいな『チャックン』なんです。そのほかのキャラクターやフルーツアイテムなども僕が描きました,レベルデザインもやりましたね」

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 さらには開発環境の整備も行っていたという。

 「『Chack'n Pop』の開発当初は,画面に表示される色を確認するために毎回ヒューズROM(バイポーラROM)を焼く必要があって,手間がかかりました。そこで開発機に追加基板を入れて,カラーデータをすぐに表示できるようにしたんです」

 酒匂氏は「Chack'n Pop」を「難度が高くてアーケードでヒットという感じではなかった」と振り返るが,同作はファミコンやMSXといったさまざまなプラットフォームに向けてリリースされ,タイトーを代表するIPの1つとなった。

 ただ,当時はハードウェアの性能差が大きかったこともあり,再現性はまちまちで,モンスターの動き方も酒匂氏の思い描いたものとは違っていたようだ。

 「モンスターのアルゴリズムパターンは2つありました。仮にAパターンがプレイヤーを追いかけてくるものだとすると,Bパターンはフラフラとランダムに動くといった感じです。アーケード版では,Bパターンのモンスターにプレイヤーが近づくと,Aパターンに変化して,プレイヤーを追いかける感じになっていて,これを利用した攻略法もあったんですが,このあたりをしっかり再現できたのはMSX版だけでした。ファミコン版の再現性はあまりよくなかったですね」

 アーケード版からの移植作は酒匂氏以外のメンバーが開発していたが,そもそも開発を行う連絡すらなく,ニデコからリリースされたPC-8801版などは発売後に知ったという。

 「横の連携はあまりなかったですね。まぁタイトーはアーケードが本業だったこともあったんでしょう」

ファミコン版「Chack'n Pop(ちゃっくんぽっぷ)」のパッケージイラスト
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技術者からゲームプランナーへ


 「Chack'n Pop」の後も,酒匂氏の仕事はハードウェア関連のものが多かったようで,ユニークなコントロールデバイスを採用したタイトルや,コントロールデバイスそのものの開発にも関わっている。

 「『CYCLEマー坊』(1984年リリース)の開発用ボードを作りました。コントロールパネルの左側にジャンプボタン,右側にローラーコントローラがついていて,ローラーコントローラの回し加減でキャラのスピードが変化するゲームです。基板がちょっと壊れたときなども,自分で直していましたね」

 酒匂氏が開発したコントロールデバイスは,当時としては斬新な,直感的なものだった。

 「押す力によって入力数値が変わる圧力センサーの基礎研究をやっていたところ,上司からそのセンサーを使ったサンプルゲームを作れと言われて,作ることになりました。
 圧力がかかることで電気抵抗が変わる感圧導電性ゴムというものが当時からあったんですが,まだ耐久性に乏しいことが分かって,最終的に落ち着いたのはコイル式でした。
 巻いたコイルの中に通したフェライト磁石をスプリングで浮かせてボタンとくっつけ,叩いたスピードで電圧の数値が変わるものです。その数値はアナログなので,コンバータを介してデジタルデータを出力していました」

 酒匂氏はそのデバイスを使って,ボタンを強く押すと弾が遠くへ飛ぶ艦砲射撃のようなゲームを試作したほか,実験的に「CYCLEマー坊」に組み込んだこともあったという。だが,残念ながら製品化には至らなかった。
 その後酒匂氏は,新設された企画課に異動となる。

 「つまりプランナー職の集団ができたんです。『Chack'n Pop』でも『THE運動会』(1984年リリース)でもプランナーのような仕事はしていましたが,いよいよ本格的にプランナーになりました」

 タイトーに企画課が新設されたのは,それまでごく少人数で行われていたゲーム開発の規模が大きくなり,分業化が始まったことによるものだろう。この動きは,ゲームが産業としてきちんと成り立つことの証でもあったと思う。それ以前の業界には,「いつまで続けられるか分からない」と考える経営者も多かったのだ。

 企画課に入った酒匂氏がまず手がけることになったのが,自分がいちから企画するものではなく,開発中タイトルの軌道修正だった。

 「柔道もののゲームで,最初に見たときは,縦画面でちょっとダサい柔道選手が動いているという印象でした。
 当時はゲーム開発会社があまりなくて,いわゆるシステム系の開発会社に委託することもあったんです。今みたいに実装用の仕様書とか,ゲーム性を高めるノウハウもありませんから,まずはデモを作ってから考える手法でやっていたんですが,その時の状態は,“クソゲー”に類するものでしたね」

 上司から「それをなんとか売れるようにしろ」という命令を受けた酒匂氏は,まずタイトー社内での開発を提言してチームを組み,ゲーム作りでは,キャラクターに思い切った変更を加えた。

 「やっぱり柔道って,男臭くて難しい…ということになったんですね。だったらいっそのことキャラは女の子にして,ギャルゲーにしてしまおうと」

 そうして生まれたのが「女三四郎」(1985年リリース)だ。主人公の女の子が木陰で制服から柔道着に着替えるという,まさにギャルゲー的なシーンから始まり,柔道の試合なのにパンチやキックが出せるという,突き抜けたゲームになっていた。
 「Chack'n Pop」でもそうだったが,ハードウェア畑の出身でありながら,キャラクター作りにこだわりを見せる酒匂氏のゲーム開発は興味深い。

「女三四郎」のパンフレット
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 「女三四郎」の開発は途中から複数拠点での開発を余儀なくされた。ネット環境の整備が進んだ今なら珍しくないが,当時はなかなか大変だったようだ。

 「開発中にコーガンさんが急逝した影響で京セラが資本参加することになり,開発部署の一部が世田谷区用賀の京セラオフィスに移ったんです。『女三四郎』のメンバーも僕以外は用賀で勤務することになりました。
 そこで僕が週1で綱島から用賀に行くことにして,両方で作ったものを用賀で実装させて,フィードバックするようなことをやっていました」

ミハイル・コーガン氏(タイトーの40周年記念誌より)
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 心臓病が持病だったコーガン氏は1984年2月5日,入院していたアメリカのUCLA附属病院で死去した。64歳だった。コーガン氏はタイトーの株式の大半を保有しており,遺族はそれを含んだ膨大な遺産にかかる相続税の問題を抱えることになった。
 そこでタイトーの中西昭雄取締役相談役は,懇意にしていた京セラの稲森和夫氏への株式売却を提案。タイトーは1986年には京セラグループ入りすることになる。

 1953年に太東貿易(後のタイトー)を創業したコーガン氏は,同社だけでなく,ゲーム業界全体に大きな影響を与えた人物だった。日本でのビジネスを積極的に推進したが,その一方で接待や付け届けのような日本流の付き合い方は嫌ったという。
 酒匂氏は,会社のエレベーターにコーガン氏と乗り合わせることが多かったと話した。

 「大きな人で,身長は180センチくらい,体重も100キロくらいあったんじゃないでしょうか。
 経営者としての器量も大きかったと思います。経営状況がよくないときでも,社員にはきっちりと給料やボーナスを払ってくれましたし,コーガンさんがいなかったら今のカプコンさんはなかったんじゃないでしょうか。辻本憲三さんがカプコンを立ち上げる資金を出したという話を聞いたことがあります」

 コーガン氏と辻本氏の関係については,赤木真澄氏の著書「それは『ポン』から始まった-アーケードTVゲームの成り立ち」が詳しい。それに書かれている内容を基に,もう少し詳しく紹介しておこう。
 1940年生まれの辻本氏は,1969年にアイ・ピー・エム商会を創業し,1974年に法人化。当初は雑貨店や駄菓子屋の店頭に子供向けのピンボールなどを卸していた。
 その後ゲーム機の開発に乗り出し,石川県にあるナナオグループと提携して「ブロック崩し」などを成功させ,1979年にはアイレムに社名を変更。さらなる事業拡大の一環としてタイトーから許諾を受けて「IPMインベーダー」を開発したが,ブームに乗り遅れて経営が傾き,大量の在庫品を抱えることになった。

 辻本氏は経営責任をとって個人で負債を解消し,1983年にアイレム会長を退任。多額の借金により自宅さえも売り払ったという辻本氏に「資金は出すからビジネスをやってみないか」と声をかけたのがコーガン氏だった。辻本氏がコーガン氏から借りた資金で創業したのがカプコンというわけだ。

 現在のタイトーとカプコンはゲーム市場でしのぎを削るライバル企業だが,カプコンの創業時にこのようなエピソードがあったことは,非常に興味深い。


ヒット作「チェイスH.Q.」「オペレーションサンダーボルト」の開発


 京セラグループに入るタイミングで,タイトー子会社の整理統合も行われた。開発のパシフィック工業,販売を行っていた日本自動販売機は,1986年4月にタイトーへ吸収合併され,酒匂氏や京セラのオフィスにいた開発メンバーは綱島へ移ることになった。

 「その頃立ち上がったプロジェクトに『ダライアス』(1986年リリース)と『スクランブルフォーメーション』(1986年リリース)がありました。ダライアスは,メカの担当者の『ハーフミラーを使うと,こんな画面が出せるんだけど』という提案から生まれたものです」

 ハーフミラーは,「明るい側から見ると鏡だが,暗い側からは向こう側が透けて見える」という性質を持っている。
 ダライアスの筐体内部には,ブラウン管ディスプレイ3台が離れた状態で配置されており,それぞれの映像をハーフミラーに反射させたり,あるいは透過させたりして,ほとんど継ぎ目が分からない横長の画面を表示させていた。

「ダライアス」
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 「あれは企画課の1年後輩だった藤田 朗くんが担当したものです。自分はあまり関わっていなくて,デバッグとかで少しお手伝いしたくらいだったんですが,クレジットのSPECIAL THANKSには名前が入っていたと思います」

 その頃の酒匂氏は,新たなジャンルのゲーム開発に着手していた。

 「上司から可動筐体を使ったレースゲームを開発するよう指示を受けて,『フルスロットル』(1987年リリース)に着手したんです。ちょうど体感型のゲームに注目が集まり始めた頃ですね」

 驚くことに,このとき酒匂氏は自動車の運転免許を持っていなかった。

 「バイクの免許は持っていたので,公道を走る感覚は知っていましたが,クルマのことはよく分かっていなかったですね。ただ,クルマに興味はあって,学生時代からタミヤの24分の1スケールのプラモデルを60台くらい作っていました。
 バイク乗りなので,バイクの良さをクルマのゲームに取り入れようとしたんです。バイクのような急発進や急加速の感覚が欲しくて,ニトロスイッチを押すとフル加速する仕組みを考えました。自動車免許のない時代に作った自分のドライブゲームは,今考えるとひどかったなと思いますよ(笑)」

20歳の頃,箱根ターンパイク駐車場にて。バイクはホンダVFX400
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 酒匂氏が「フルスロットル」に続いて手がけたドライブものが「チェイスH.Q.」(1988年リリース)だ。覆面パトカーを運転して犯人の車にぶつけて逮捕するという,ドライブゲームとアクションゲームのよさがミックスされたタイトルだ。

 「あくまでゲームですから,実車のようなドライバビリティは求めませんでした。」

「チェイスH.Q.」の筐体
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 「チェイスH.Q.」をプレイした人なら,ゲームスタートの前に挿入される「ナンシーより緊急連絡」という無線のセリフを覚えている人も多いだろう。

 「あの『ナンシー』の名付け親は僕じゃなくて,シナリオを書いた外部のコーディネーターの方です。
 ゲームのモチーフにしたのは,僕がすごく好きだったアメリカの刑事ドラマ『マイアミ・バイス』なんですよ。白人のソニーと,黒人のリコという2人の潜入捜査官が活躍するんですが,ソニーの愛車が白のフェラーリ・テスタロッサなんです。潜入捜査官がテスタロッサに乗っているなんてカッコいいじゃないですか。なので『チェイスH.Q.』にも,白人トニーと黒人レイモンドのコンビを登場させました(笑)」

 一般的なレースゲームでは避けるべきものとされていた「他車への接触」をウリにした「チェイスH.Q.」はヒット作となり,さまざまなプラットフォームに移植されたほか,続編やスピンオフ作品もリリースされた。

「オペレーションサンダーボルト」のイメージイラスト
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 酒匂氏は「チェイスH.Q.」と同じ年に,ガンシューティングでもヒット作を送り出している。「オペレーションサンダーボルト」だ。

 「1987年10月にリリースされた『オペレーションウルフ』の売り上げが良かったので,その続編を作ることになりました。上司からその話があった時点で『2人同時プレイにしてくれ』という指示があったと思います。
 『オペレーションウルフ』から関わっていた同僚の鎗田準次君と一緒に取り組むことになって,鎗田君から『これ観ておいてよ』と渡されたのが,チャック・ノリス主演の映画『デルタ・フォ−ス』のビデオでした。それを見ながらゲームの展開を練ったんです。

 「オペレーションウルフ」や「オペレーションサンダーボルト」は,ガンコントローラ内部のセンサーで画面の光を検知することにより射撃の当たり判定を行う仕組みになっていた。このガンコントローラは,酒匂氏の“愛機”がモチーフだという。

 「『オペレーションサンダーボルト』の開発当時はモデルガンにはまっていて,渋谷にあったMGC(※)に通い,MGCのイングラム・モデル11というマシンガンも持っていました。それをもとにガンコントローラを作ってもらったんです」

※1906年に創業した日本のモデルガンメーカー。1996年に解散

 2人同時プレイが可能なアーケード向けガンシューティングゲームは,「オペレーションサンダーボルト」が最初と言われている。それを考えると,同作は今世界中で人気となっているジャンルの先駆けと言えるのかもしれない。

 「『オペレーションサンダーボルト』は,今で言うマルチプレイFPSだったんですよ。擬似的ではありましたけれど」


幻の“実写版”「ミッドナイトランディング」


 携帯ゲーム機や据え置き型ゲーム機,圧力センサー内蔵のコントロールデバイスなど,酒匂氏が関わってきたプロジェクトには,商品化に至らなかったものがいくつかある。これは氏がいかに先進的・実験的なことに取り組んでいたかを証明するものでもあるだろう。

 それはプランナーとなってからも変わらなかったようで,氏は知る人ぞ知る“実写版”「ミッドナイトランディング」の開発に参加している。
 タイトーが1987年にリリースした「ミッドナイトランディング」は,当時のアーケードゲームとしては珍しいフライトシミュレータで,その名前の通り,夜間着陸が題材となっていた。

「ミッドナイトランディング」筐体
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「ミッドナイトランディング」のパンフレット
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 夜間が舞台となった理由の1つにあるのが,技術的な問題だった。当時のアーケードゲーム基板ではポリゴンを使った3Dグラフィックスを扱えず,スプライトとバックグラウンドの組み合わせでしか表現ができなかったのだ。そのため,オブジェクトをあえて描写せず,闇の中に滑走路の誘導灯や街の灯りといった光だけを表現することにしたという。

 見事な発想の転換ではあるが,決して“絵を描かなくていいからお手軽”といったものではない。3Dモデルを使わないことで,着陸のシミュレーション(計算)などが逆に難しくなるといったことは,容易に想像できる。
 本作がリリースされるまでにはさまざまな試行錯誤があったのだが,酒匂氏が関わった“実写版”もその1つだ。

 「開発に着手するにあたって考えたときに『思い切って実写でやってみようか』ということになったんです」

 それは,分かりやすくまとめてしまうと「ミニチュアの空港にカメラを着陸させる」ものだった。

 「ベニヤ板で棺桶みたいな箱を作って,内側を真っ黒にペイントします。滑走路となる床面に赤色のLEDライト(誘導灯)をいくつも配置して,そこにプレイヤーの操作に合わせて移動するビデオカメラを入れるんです。その映像がパイロットの視点というわけです。ヨーイングやピッチングも表現できて,すごくリアリティがありました。タイトーはもともとエレメカがルーツの会社なので,ハード面からの発想が多かったと思います」

“実写版”「ミッドナイトランディング」を図解する酒匂氏
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 この“実写版”は,当時荻窪にあったタイトーステーションでロケテストが行われた。

 「カメラの映像に,ゲーム基板から出したユーザーインタフェースを合成してゲーム画面にしていたんですが,これの評判がすごく良くて,インカムも上々だったんですよ。
 ですが,当時まだ高価だったビデオカメラなどでコストが高く付きましたし,筐体の全長が2メートルくらいで場所を取りすぎるといった理由もあって,商品化・量産化には適さないと判断されました。僕はそこで『ミッドナイトランディング』の開発を離れています」

 当時からは30年以上が経ち,今は手のひらに載るような小型の4Kカメラが数万円で手に入る時代になった。ゲーム基板の性能向上はそれ以上にすさまじく,VR技術なども生まれている。当時は「いかにして現実をゲームの世界に取り入れるか」が開発者の命題だったが,今のゲームは,現実の世界と見分けが付かない世界を当然のように表現できる。“実写版”方式の出番はないのかもしれない。あの時代だったからこそ生まれた発想だろう。

 また,当時は思い切った試みがやりやすい状況でもあったという。
 「バブルのちょっと前くらいでしたし,ゲームセンターも今とは比較にならないくらいの数がありましたから。
 世知辛い話ですが,今は部品の共通化・共有化が各社の大きな課題なんです。製品を量産する以上は,できるだけ共通部品をいっぱい使って,コストを下げなければいけない。もちろんその機種専用のパーツを作ることはありますが,やりすぎると単価が上がって,メーカーは売れない,オペレーターは仕入れられない,プレイヤーは遊べないということになります。誰も幸せになれない」


念願のバイクゲーム開発


 その後,酒匂氏はバイクゲームの「WGP」(1989年リリース)を手がけることになるのだが,これは入社以来の念願だったそうだ。高校卒業間際に原付免許を取った酒匂氏は,タイトー入社後すぐ,勤務先だったパシフィック工業に向かう途中のホンダの販売店で,MBX50を手に入れたという。その頃から温め続けてきた思いというわけだ。

 「バイクゲームはずっと開発してみたかったんです。研究も3年くらいしていたんですが,開発を希望してもなかなか通らなくて,何かヒット作を出したら開発してもいいと上司の言質を取りました。その後にリリースした『チェイスH.Q.』が好調だったので,ようやく開発にこぎ着けたんです」

 バイクゲームでは,セガ・エンタープライゼス(現在のセガ)が1985年にリリースした「ハングオン」がヒットしていたため,タイトーはすぐに打って出るのではなく,機が熟すのを待っていたのかもしれない。

 「『WGP』は趣味全開で開発しました(笑)。当時はテレビでWGP(ロードレース世界選手権)のテレビ放送がなかったので,資料集めに苦労した記憶があります。横浜の本牧にあった,元WGPライダーの福田照男さん経営のライダーズカフェ『タキオン』に行ってレースのビデオを観たり,雑誌の『グランプリ・イラストレイテッド』を参考にしたりしました」

 この頃の酒匂氏には,仕事でバイクについて調べるうちにプライベートでもバイク熱が高まり,それを仕事に活かす……というサイクルが生まれていたようだ。

 「WGPの資料を見ているうちに影響を受けて,スクーターのレ−スをやるようになりました。さらにホンダのNSR50とNSR80というバイクを購入して,そちらでもアマチュアレースにのめり込みました。『WGP』の筐体を作るときは自分のNSR50を設計フロアに持ち込んで,寸法を取ったんですよ。ステップの位置もこだわりました」

「WGP」のパンフレット
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 操作方法にも,レーサーとしてのこだわりを込めた。

 「実際にレースをやっていたので,マニュアルシフトの操作には,通常のバイクのパターンに加えて,レーシングバイクのものも入れました。相当マニアックな仕様だったと思います」

 通常のバイクでのギアチェンジは,1速に入れるときにシフトペダルを下げ,2速目からのシフトアップはシフトペダルの下に足のつま先を入れて上げることで,シフトダウンはペダルを踏み下げることで行うが,レーシングバイクではそれが逆になっている(シフトアップ時のタイムロスを少なくするなどの目的による)。本物を追求するために,あえて一般のライダーが慣れていない操作方法を入れたというわけだ。

 「筐体から風を出して,プレイヤーがスピードを感じられるギミックも入れましたし,最大8台での通信対戦が可能でした。筐体も,車体を倒せるものと倒せないものの2タイプがあったんです」

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 車体を倒せる筐体には,その動きに合わせて画面表示が傾く演出もあった。ただ,酒匂氏はここに少々心残りがあるという。

 「当時の画面解像度は320×240ドットでした。画面を傾かせるには,その1.5倍くらいのグラフィックスを用意しないと四隅に空白ができてしまうんですが,それを320×240ドットのままで開発を進めていたんです。
 新規設計した基板やカスタムチップを使っていて,再設計もできないとなり,やむを得ず画面を拡大表示させることにしました。グラフィックスが粗くなってしまいましたが,納期も迫っていたので……」

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 「WGP」はテレビCMも制作されたが,酒匂氏はそこで思わぬ仕事を担当することになった。

 「当時タイトーは『おニャン子クラブ』の岩井由紀子(ゆうゆ)さんをイメージキャラクターに起用していて,WGPのCMもそのシリーズの1つとして撮られたものでした。
 CMの撮影現場に筐体を持ち込むから立ち会えと言われて向かったら,スタイリストさんにレザーのツナギとヘルメットを渡されて,プレイ中のアクションを撮影されたんです。まぁ騙されましたね(笑)。今でもネットには映像があると思いますよ(笑)」

 酒匂氏は「WGP」以外にもバイクゲームを手がけている。

 「バイクとクルマのバトルゲームをテーマにした『デンジャラスカーブス』(1995年リリース)も作りました。これのときも『WGP』と同じように,当時自分が乗っていたドゥカティ888を持ち込んで,エンジン音をサンプリングしましたね。
 いわゆるスーパーバイク・タイプのマシンが好きで,ニフティの輸入車フォーラムのバイク専用会議室とか,ドゥカティで箱根を走る『ドカ箱』というツーリングにも参加していました」

 酒匂氏がドゥカティに乗るきっかけとなったのは,意外にもクルマだという。

 「クルマの免許を取って,最初にホンダのCR-Xを買ったんですが,その後イタリアのランチア・デルタに乗り換えたんです。そうしたら,まったくハンドリングのフィールが違って,めちゃくちゃ面白くて。カートに乗っているような感覚でしたね。
 『国産車とイタリア車がこれだけ違うなら,バイクもそうかもしれない』と思って,同じイタリアのドゥカティに乗ってみたんです」

 このドゥカティに乗っているとき,酒匂氏は事故に遭って入院生活を余儀なくされた。

 「スピードはあまり出していなかったんですが,無理やり右折してきたトラックにはねられたんです。背骨と手首を骨折して,40日間くらい寝たきりの入院生活でした。骨折の場所が少しずれていたら,一生車椅子生活だったと言われましたね」

 その後は結婚を前にして,バイクに乗らない約束を奥様と交わし,ずっとそれを守ってきた酒匂氏だったが,2018年に発売されたホンダの「モンキー125」がどうしても欲しくて,内緒で手に入れたという。最初の愛車となった「MBX50」と同じ店で購入したそうだ。

 「25年ぶりに欲しいバイクができてしまいました。でも当面は庭の物陰に隠しておきます(笑)」


ゲーム業界の慣習を変えた「サイドバイサイド」


 かつてはバイク感覚でクルマのゲームを作っていた酒匂氏だったが,自身が自動車免許を取ったこともあってか,本格派のカーレース作品にも着手した。

 「コンシューマの部署から異動してきたプログラマーと一緒に作った『サイドバイサイド』(1996年リリース)です。その頃には3Dグラフィックスを出せる基板がリリースされていたので,試しに自分が乗っていたランチア・デルタの3Dモデルを作ってテクスチャを貼ってみたら,すごく実車感が出たんです。それで実在車種が登場するゲームにしようと思って,4メーカーから許諾を得ました」

「サイドバイサイド」のパンフレット
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 これは当時のゲーム業界にとっては異例のことだった。というのも,ロイヤリティの支払いが発生したからだ。
 当時アーケードを中心にカーレースゲームをヒットさせていたメーカーは,あくまで「実車に近いイメージ」のクルマをゲーム内に登場させていた。タイトルで言えばナムコの「リッジレーサー」(1993年リリース)や「バーチャレーシング」(1992年リリース)「デイトナUSA」(1994年リリース)などがそれに当たる。
 
 1995年にリリースされた「セガラリーチャンピオンシップ」には,トヨタのセリカGT-FOURと,ランチアのデルタHFインテグラーレが登場していたが,これはゲーム内でクルマの宣伝を行うという形で許諾を得ており,ロイヤリティは発生していないという。

 ところが「サイドバイサイド」では,ロイヤリティの支払いを前提とした交渉を行った。それはなぜだろうか。

 「当時のセガさんとタイトーの売り上げを比較したら,圧倒的にセガさんのほうが大きいわけですよね。だから,タイトーのタイトルで同じビジネスモデルを使うのは難しいと思ったんです。また,その頃の自動車メーカーさんとゲームメーカーの距離感を考えると,いつまで宣伝とのバーターが続けられるかも分かりませんでした。
 ちゃんとロイヤリティを支払えば信頼関係を築けて次のビジネスにもつなげられると思ったので,上司に相談のうえ,登場する車種の台数に合わせた著作権料を支払う契約を自動車メーカーと結んだんです。自動車メーカーさんは好意的でしたね」

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 「サイドバイサイド」以降にリリースされる実在車種収録のゲームでは,ロイヤリティの支払いを含むライセンス契約が一般的となっていった。当然ながらその分開発費用が上がることになったため,酒匂氏の耳には同業者からの非難めいた声も聞こえてきたという。

 だが筆者は,酒匂氏が話したように,「ゲームを使った自動車の販売促進です」という言い分は,遅かれ早かれ通用しなくなっただろうと考えている。どこかがババを引くまで待つのではなく,自ら支払い前提の交渉に踏み切ったのは,酒匂氏やタイトーが業界全体の先を考えていたからだろう。


ゲームの世界を飛び出し,新たなチャレンジへ


 2000年代に入り,酒匂氏は管理職となって,仕事は開発現場から離れたものが増えた。

 「自分がタイトーで関わった最後の作品は,2008年リリースのオンラインカードゲーム『悠久の車輪』だったと思います。タイトーがスクウェア・エニックスさんに吸収される少し前に立ち上がった,社長直轄の2社共同プロジェクトでした。その頃は,アーケード不況のあおりを受けて,タイトーもかなり厳しくなっていたんです」

 その後,開発部長まで務めた酒匂氏だったが,タイトーからの退職を決意。次の仕事としては,意中のゲームプラットフォームがあった。

 「ガンホー・オンライン・エンターテイメントさんの『パズル&ドラゴンズ』がリリースされて,アーケードゲームのコンティニューのシステムが取り入れられていることに驚いたんです。魔法石を買ってコンティニューするってことですね。スマホゲームでこれをやるのはすごい発想だなと思って,自分もスマホゲームに取り組んでみたいと思ったんです」

 そして酒匂氏は,今も勤務するあまたに入社した。

 「スマホゲーム開発会社の募集では,自分の職歴とマッチするところがそれほどありませんでしたが,あまたにお世話になりました。比較的中・小規模の組織で働いてみたかったこともあります。
 入社後はスマホ向けのソーシャルゲームタイトルに関わっていましたが,今はプロジェクトゼロという部署で,社長直轄の新規企画や映像制作,ドラマなどを作っています。今後はアニメーションを作ってみたいですね」

 タイトー時代とはまったく畑違いの仕事をしているようにも見えるが,かつてアーケードゲーム開発で得た知識や経験は,今も生きているという。

 「タイトーでたくさんの企画や開発を手がけたことから得たのは,『お客様第一主義』ということです。ゲームに限らず,エンターテイメントはお客様を『褒める』ことが大事なんだと,年齢を重ねるごとに強く感じています。
 『CLEAR!』とか『Win』より,『あんたすげぇな!』って画面に表示されたほうが嬉しいはずなんですよね。ゲームはいつのまにか事務的なメッセージしか発しなくなったような気がします。ベタでもいいので,お客様に寄り添う気持ちを大事にしたいです。
 もともと好奇心旺盛なので,多趣味で困った私生活を送っていますが,いろいろな経験を積むことで,興味の範囲がさらに広がっているんですよ。困ったものです,お金が足りません(笑)」

 酒匂氏は,ゲームの作り方には2つの方法があると語った。既存のものを組み合わせ,そこにアイデアを付け加える方法と,何もないところから生み出す方法だ。後者の何もないところから生み出す方法はあまり経験がないということだったが,酒匂氏にとってのアニメーション制作は,まさに何もないところから作品を生み出す作業になるのかもしれない。

 かつてさまざまな先進的・実験的なプロジェクトに取り組んだ酒匂氏の新しいチャレンジに期待するのは,筆者だけではないだろう。いつの日か酒匂氏制作のアニメーションを観ることも楽しみにしたい。

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参考資料:「BEEP」「それは『ポン』から始まった-アーケードTVゲームの成り立ち」

著者紹介:黒川文雄
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 1960年東京都生まれ。音楽や映画・映像ビジネスのほか,セガ,コナミデジタルエンタテインメント,ブシロードといった企業でゲームビジネスに携わる。
 現在はジェミニエンタテインメント代表取締役と黒川メディアコンテンツ研究所・所長を務め,メディアアコンテンツ研究家としても活動し,エンタテインメント系勉強会の黒川塾を主宰。
 プロデュース作品に「ANA747 FOREVER」「ATARI GAME OVER」(映像)「アルテイル」(オンラインゲーム),大手パブリッシャーとの協業コンテンツ等多数。オンラインサロン黒川塾も開設

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