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「スーパーモナコGP」や「ダーツライブ」を生み,セガの社長も務めた小口久雄氏が考える“ゲームの面白さ”とは ビデオゲームの語り部たち:第37部
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印刷2024/04/27 11:00

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「スーパーモナコGP」や「ダーツライブ」を生み,セガの社長も務めた小口久雄氏が考える“ゲームの面白さ”とは ビデオゲームの語り部たち:第37部

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 「ビデオゲームの語り部たち」第37部では,「スーパーモナコGP」や「ダーツライブ」などを手がけたクリエイターであり,セガの代表取締役社長も務めた小口久雄氏に話を聞く。

 セガがセガ・エンタープライゼスだった時代。代表取締役として辣腕を振るった中山隼雄氏は,セガ中興の祖と言える人物だった。ゲームセンターがアミューズメントセンター,アミューズメントテーマパークへの転身を図り,同時に大型のアーケードゲーム,いわゆる「体感ゲーム」の導入を促進したのも中山氏だ。

 そんな氏の体制のもと,第3AM研究開発部(通称AM3研)の部長に,若くして抜擢されたのが小口久雄氏であった。セガとしては,鈴木 裕氏が率いた第2AM研究開発部(AM2研)とは異なるカラーの作品開発を望んだことだろう。小口氏はその期待に応え,部署として,セガの歴史に残る,素晴らしいゲームを世に送り出してきた。
 そして2004年には,新卒入社の社員として佐藤秀樹氏に次ぐ,二人目の代表取締役社長に就任した。分社されていたセガの子会社を再びまとめたのは,小口氏の力によるところが大きい。その後は,セガサミークリエイションの代表取締役などを歴任した。
 今回のビデオゲームの語り部たちでは,他の部署とは異なるカラーの作品を生み出した小口氏のルーツとその発想力,指導力,嗅覚などを感じ取っていただければ幸いだ。

小口久雄氏
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幼少期から,何かを弾いて穴に入れるゲームにハマっていた


 小口氏は,1960年に長野県岡谷市で生まれた。幼少期は,「狼少年ケン」※が原作のボードゲームや,自作のスマートボールで遊んでいたという。
※1963年から65年まで放送された,東映動画制作のテレビアニメ

 「小学生の頃は,そういうボードゲームで結構遊んでいたね。それをやりつつ,家にパチンコ台があったんで,自分でクギを開いたり玉を打ったり。『狼少年ケン』のボードゲームもそうだけど,何かを弾いて穴に入れるのが好きだった。パチンコって,原理的には玉を弾いて穴に入れることしかない。それが今でも残っているのは,人間がそれを本能的に楽しいと感じるから。スマートボールもすごく好きで,自分で作って遊んでた」

幼少期と,小学校入学時の小口氏
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 また,母親がデパートで買い物をするときに付いていって,屋上のゲームセンターでエレメカを遊んでいたそうだ。

ペリスコープ
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 「小学校6年生くらいだったと思うんだけど,セガの『ペリスコープ』もあったね。まだセガなんて,全然知らなかったけど。ほかは全部1回10円だったのに,『ペリスコープ』はデラックス版だったからなのか,20円なんだよ。潜望鏡が横並びで3隻分あるやつ」

 「ペリスコープ」は,ほかのエレメカよりも料金が高いため,あまり遊ばなかったという。そのぶん遊んでいたものが,景品を掴めるゲームなのだが,その遊び方が時代を感じられて面白い。

 「それよりも,クルマの前にクレーンが付いていて,走って行くとそのクレーンでキャンディとかの景品を掴めるってのを死ぬほどやった。景品の中に,タバコがあったんだよ。タバコが取れたら,ゲーセンを管理してるおじさんのところに持っていくと買い取ってもらえる。そのお金でまたゲームをやる。そういうのが許されていた時代だった」

小学生時代,自宅にて撮影
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 そんな幼少期からゲームが好きだった小口氏に,両親は何も言わなかったそうだ。

 「うちは放任主義だから。それでも中学生の頃は,そこそこ『勉強しろ』と言っていた気がする。それで塾に行って,中学校より1年分早く英語と数学をやっていたんだけど,そうなると学校の授業って簡単になる。テストなんて毎回100点だったもん。昔は今ほど皆が皆,勉強しているって感じじゃなかったしね」

 中学校を卒業した小口氏は,長野県諏訪清陵高等学校に進学する。

 「そこまで勉強したつもりはないんだけど,中学校の各クラスで1〜2番くらいの人達が行く進学校に入った。それで入学試験の成績順位を教えてくれて。俺は275人くらいのなかの75番。さらにテストのたびに全員の順位が貼り出されて,俺はいつも真ん中くらい。270番台は5人くらいしかいないから,『恐怖の270番台』とか言われていた」

 進学校だから真面目な生徒ばかりかと思いきや,小口氏いわく「変な人だらけだった」とのこと。

 「真面目な人達は,もちろんいるんだよ。でも頭はいいけど,奇抜な人達が多かった。だって趣味の話になって,『何が好きなの?』って聞いたら,『相対性理論ですかね』って(笑)。そんな高校生いる? まあ,そいつは東大に行ったけど。あとはバイクばっかり乗ってるやつとか。そいつは登校してくるときに,街中で下半身丸出しでバイクに乗ってきて(笑)」

 高校を卒業した小口氏は大学を受験するが,現役合格は果たせなかった。そこで予備校に通うべく,東京に出てくることになる。

 「長野って“教育県”だからさ,遊ぶとこないじゃん。俺ゲーム大好きだったから,ゲーセン行きたかったんだよ。それで西武新宿線の新井薬師前近くに住んでさ,昼は南口にあるパチンコ屋に入り浸っていた。当時は必勝法があったんで,同時に3台くらいやって小遣いを増やしていた」

 夜は夜で,パチンコで稼いだ資金を持って歌舞伎町に行き,ゲームセンターのビンゴイン・サブナードに入り浸って,ビンゴマシン(ピンボール)で遊んでいたそうだ。

 「ビデオゲームからボードゲームまで,あらゆるゲームというものの中で,未だにビンゴが一番面白いと思ってる。それほど惚れ込んで,死ぬほどやった。セガの社長になって,ちょっと余裕ができたとき,中古で5台くらい大人買いした」

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 小口氏がビンゴマシンにハマった理由は,そのギャンブル性の高さにある。

 「当時はコイン1枚20〜30円。1ゲームで5球遊べるんだけど,入れるメダル数の制限がなくて,1枚でも500枚でもできる。でもコインを入れることで,ゲームの条件とスコアが上がっていくので,1段階上げたいがためにまたコインを入れちゃう。
 このゲームのすごいところは,コインを入れるところも駆け引きなんだ。この条件を付けたいからずっとコインを入れていたけど,結局付かなかったから『仕方ない,これで打つか』って」

 またビンゴマシンには筐体の両脇を持って揺らし,ボールの動きをコントロールするというテクニックがあるが,揺らしすぎると「ティルト」が発生し,そのゲームは強制終了となって,投入したコインはすべて没収される。その駆け引きも,大きな魅力だったそうだ。

 「この機械はこれくらい揺らしても大丈夫なはずっていう,ティルトとの駆け引き。だから,めっちゃ緊張するんですよ。うまくいったと思った瞬間にティルトになったなんて,何回もある。その緊張感がたまらない。ギャンブル要素と自分のテクニックを介在させられる要素があるので,ビンゴは最高に面白い」

 もともとビンゴマシンはギャンブルの1つとして開発されたものだ。実際,アメリカなど海外ではギャンブルとして扱われていたが,日本ではアミューズメント扱いだった。

 「アミューズメントだからお金にならないのに,大の大人が借金してまでやっていたんだよ。家を潰したなんて人もいた。ビンゴインに来るのは,お金持ちばかりだったね。場所柄,ホストや弁護士,芸能人──沢田研二もハマっていた。そういう大人は皆,財布に10万円くらい入っているんだよ。
 でも俺は学生だからさ,2万円くらいしか持ってないじゃん。深夜になって『あと1万円しかない。どうしようかな』って。だって1万円なんて,1ゲームで消えるかもしれないし。『終電行っちゃって,お金もなくなったらどうしよう』って考えるんだけど,それでもやりたいくらいハマっていた」

中央大学に通っていた頃の小口氏
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 そのくらいビンゴマシンに惚れ込んでいた小口氏だったが,「遊んでばかりじゃいけない」と,中央大学理工学部に入学してからは,並行して塾講師のアルバイトもやっていたという。

 「大学2年のときに,履修制限に引っかかって。2年までに必修単位を取ってないと,3年の単位を取れなくなるんだよ。それに気づいたのが2年の途中だった。だから2年の時点で,大学に5年通うことが確定した。でも,親にはなかなか言えなくてね」


パチンコ好きだったから,セガとサミーとの合併は内心悪くないと思っていた


 1984年,小口氏はセガに入社。同期には,のちに「ソニック」シリーズなどを生み出した中 裕司氏がいたが,小口氏は密かにコンプレックスを抱いていたという。

 「同期だけど,中は高専卒の現役じゃん。俺は1浪の大学5年でしょ? 4歳くらい違うんだよ。『めっちゃ若いな』って。それで俺は志望どおり企画に配属されたんだけど,研修は全員一緒だったんだ。Z80のアセンブラやらされて,俺みたいな普通のレベルの人は,オブジェクトから弾を撃ちます,向こう側に動いているものがあります,あたったら消えます,点数入ります,背景黒です……くらいのところまで,2か月で作れるようになる。
 でも中が発表した作品だけはさ,『あれ? 背景に色が付いている,スクロールしてる? え,どういうこと?』って。意味が分からなかったね。背景のことなんて教えてもらってない。中は高専でプログラムの実務をやってきたから,ソフトで背景を動かすなんてことができたんだ。そのとき俺,プログラマーじゃなくて企画でよかったと思ったよ」

どきどきペンギンランド
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 当時はサントリー「CANビール」のテレビCMに登場したペンギンがブームになっていたという理由で,上司から「ペンギンのゲームを考えろ」と言われた小口氏は,SG-1000 / SC-3000用のアクションパズル「どきどきペンギンランド」の企画を手がけることに。

 「その頃はコンシューマやアーケードみたいな区分じゃなくて,ソフトとメカに分かれていた。俺もメダルゲームやりながら,SC-3000もやっていた。『どきどきペンギンランド』は万単位で売れたよ」

 そのあと,小口氏はメカ部門に異動し,メダルゲーム「スーパーダービー」を手がける。

「矢木さん(矢木 博氏)と組んでね。あの人,石橋叩きすぎて,自分で割っちゃうんですよ。『そんなんやったら,トラブルになるからダメ』って,全然前に進まない。有名だったよ」

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[2021/02/06 00:00]

 「あと,俺はパチスロとかやりたかったから定時の17:15で上がっていたんだけど,矢木さんはデフォルトで22:00まで会社にいるんだよね。たまに俺が19:00くらいまで残業して会社から出てくると,飯から帰ってきた矢木さんが『小口君,今日は早いね』って。俺の中では,スゲーやったつもりなのに(笑)。セガのハードが進化していく中で活躍した人だよね」

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 「スーパーダービー」を皮切りに,小口氏は1986年に「ワールドビンゴ」,1988年に「ワールドダービー」と次々にメダルゲームを手がけていく。

 「俺,自分で作ったメダルゲーム全部に“ワールド”と付けようと思ったんだよ。『ワールド』シリーズって呼んでた。自分で作ったのは2個で,そのあと後輩がシリーズを作っていたんだけどね。あの『ワールドビンゴ』はさ,さっき俺が熱く語ったビンゴそのものだったんだ。
 当時って,自分でパンフレットのイメージも考えていたから,自分もフランケンの格好をして,社内の広報の人に写真撮ってもらって(笑)。あの頃,スゲー楽しかった。自分の好きなものを作って,その宣伝も好きなようにやれて」

ワールドビンゴ。フランケン・マスクは小口氏だ
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 そして再びソフト部門に戻った小口氏は,1989年のアーケードゲーム「スーパーモナコGP」を手がけることになった。

 「あれは売れたよ。コックピット視点の疑似3D,セミオートマチックシステム,コースから何から全部自分でやった。ドライブゲームって,相手のクルマ──いわゆるエネミーの動きがゲーム性じゃん。プレイした人が面白く感じるように,どういうコース取りで,どういうシステムで,どういう風に動いてっていうのを,全部企画の人間が決めていたんだ。昔はAIなんてなかったからね」

スーパーモナコGP
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 なおコース作りに関しては,ロケハンなどは一切しなかったという。

 「鈴鹿のコースなんてさ,素人が作れるわけないじゃんと思って,コース真ん中で半分に切って,こっちだけ(片側を)パタンって裏返した。だって海外取材に行ったらさ,1週間くらい,ビンゴインに行けなくなっちゃうじゃん(笑)。それより,ビンゴインとパチンコ屋に行きたかった」

1990年代,AM3研の部長室で撮影
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 そんな小口氏のパチンコ好きは筋金入りで,蒲田まで行って毎日終電まで打っていたそうだ。

 「平和工業のブラボーって機械には,必勝法があったんだよね。でもそれは,3000とおりの組み合わせを覚えなきゃいけないんだよ。『この組み合わせは絶対出る』『この組み合わせは何やっても100%出ない』とかね。セガの1年先輩に『教えてください』ってマル秘のメモをもらって。最初はできるかぎり小さくコピーして,それを見ながら打つ。それを毎日続けてだんだん覚えていく。それをやらなきゃいけないんだから,海外なんて行っている場合じゃない(笑)」

 そうしたパチンコ好きという理由から,小口氏は自身が社長を務めていたセガと,パチンコメーカーのサミーとの2004年10月の合併について,実は「まあ,それもいいか」と思っていたと当時を振り返る。
 
 「セガの社員は,ものすごく反対したんだよ。だから俺も,表向きは反対側に回った。ゲームの開発者は,パチンコ・パチスロの開発をやりたがらなかったんだ」

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 話が前後するが,小口氏に自身が社長に就任する少し前のセガ──香山 哲氏が特別顧問などを務めた2000年11月以降の体制も振り返ってもらった。当時のセガは,ソフトウェア開発部門の分社化を行っており,小口氏自身もAM3研をベースとする子会社・ヒットメーカーの代表を務めていた。

 「分社化自体は,俺はいいと思っていた。自分で好きにできると思ったから。1研,2研の皆もそう思っていたはず。
 なぜかと言うと,大川さんが亡くなる前に開発の幹部を集めて,大川流経営学を叩き込んだんだよ。俺達,資本主義の仕組みを知らないから,大川さんが『今の日本でお金持ちになるには,銀行強盗か株しかない。ワシも株でお金持ちになった。だから皆それぞれが分社化して,それぞれが上場するんや』って言ってるのを真に受けちゃったんだよね。資金もセガが出してくれるからリスクないし。それで数日後,裕さん(鈴木 裕氏)の部下が俺のところに来て,裕さんから『明日,上場しよう』って言われたって(笑)」

 しかし,分社化してしばらく経ってから小口氏はあることに気づいたという。

 「ヒットメーカーは分社化した子会社の中でも儲かっていたんで,自分の好きなダーツを事業にしてダーツライブという会社を作って。ダーツライブは最初,ゲーム機器の一環としてヒットメーカーでやっていたんだけど,そのあとダーツバーのBeeを作って,そのときすごく潤った。
 そこで気づいたんだけど,ダーツライブもBeeもセガのものじゃん。最初はリスクなくていいなと思っていたんだけど,結局儲かってもセガに全部持っていかれるじゃんって。皆バカだったから,株持ってなきゃ上場しても意味ないって途中で気が付いたんだよ(笑)。自分達が上場しても,儲かるのは大川さんだけ」

ダーツライブ
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その後,2004年7月,小口氏はセガの社長に就任することになる。しかし,そこに至るまでには大きな葛藤があったそうだ。

セガ代表取締役時代
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 「そこまでの自信がなかった。やっぱり上場企業の社長になるって,それなりの器がないと。ずっとゲームクリエイターだったんで,株式上場の仕組みとか,P/LとかB/Sとかよく分からなかったし。それで1年ちょっと考えたんだけど,最後は押し切られた感じ。
 もともとゲームが作りたくてセガに入ったから,現場じゃなくなるってのは,当時嫌だったのかもしれない。だけど最終的に,エグゼクティブプロデューサーとして,ちょっと引いた立場でそれなりにものが作れるんじゃないかと考えたんだと思う。もう1つ,現実問題として当時はお金がなかった。それで社長になれば,それなりに稼げると思ってた」

 社長に就任した小口氏は,分社化していた子会社を再び1つにまとめることにした。

 「赤字の会社が多かったんで,あまり抵抗されなかった。俺としては,子会社に権限持たれるとやりにくいし。それで自分が社長になって,もう1回皆を集めた。やっぱり開発にとっては,『創造は生命(いのち)』だと本当に思っていたから。作ったものが会社の収益に直接つながる。1個のヒットが会社を救う。中山隼雄さん(セガ・エンタープライゼス元社長)の『創造は生命』という言葉は本当にすごいなと」

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