― 連載 ―


 異形の子"鬼若" 

Illustration by つるみとしゆき

 源義経の忠臣として,数多くの功績を打ち立てた武蔵坊弁慶。彼の生涯は非常に波乱万丈なものであり,興味深いエピソードが多数伝わっている。今回は武蔵坊弁慶の生き様を紹介するとともに,彼が振るった「岩融」(いわとおし)という薙刀について紹介しよう。
 軍記物である「義経記」によれば,弁慶の父親は熊野の別当である「弁しょう」,母親は二位大納言の姫君であったという。といっても両者の結婚は普通のものではなく,熊野詣に来ていた姫君に一目惚れした弁しょうが,姫君を強奪して結婚したというものだった。
 やがて姫君は妊娠するが赤ん坊はなかなか生まれず,「義経記」では出産までに18か月,「橋弁慶」では33か月,「弁慶物語」では三年の歳月がかかったとされている。そうしたことがあって,生まれてきた赤ん坊は2,3歳程度の大きさで,歯も髪の毛も生えていた。
 これを見た弁しょうは,鬼の子が生まれてしまったと思い,赤ん坊を殺害しようとする。だが姫君に懇願され,生かす代わりに京都の叔母の家に出すということになった。赤ん坊は京都に出されると,鬼若と命名されて育てられた。
 鬼若は5歳で12歳程度の子供と同じ体つきになり,すくすくと成長したが,6歳で疱瘡を患い顔が黒くなってしまう。やがて比叡山に預けられるが,生母と引き離されるなどの不遇の人生に失望したためか,鬼若は乱暴者になってしまい,手を焼いた比叡山は彼を追放した。ちなみに下山にあたって,鬼若は武蔵坊弁慶と改名している。

 源義経とともに 

 比叡山を降りたあとも,播磨の書写山の堂塔を炎上させるなどの悪行を働くが,やがて京都に出没するようになり刀狩りを始める。弁慶は1000本の刀を集めようと,多くの武芸者などと戦い999本集めたところで五条大橋で牛若丸(源義経)と戦い,身軽な牛若丸に翻弄されて降参し,義経の家臣として平家の打倒に力を貸すようになる。そして平家打倒がなった後に源頼朝と源義経が袂を分かつと,義経に従って京都から脱出。奥州の藤原氏を頼っての逃避行は,有名な逸話になっている。

 中でもとくに印象的なのが,加賀の安宅の関を越える話だろう。京都から逃避行を続ける義経一行だったが,安宅の関で止められてしまう。そこで弁慶は偽の勧進帳を読み上げただけではなく,義経を杖で打ちすえて主従関係ではないことを演じ,これを見た富樫左衛門は弁慶の嘘を見破りながらも関を通してやるという,泣かせる内容だ。これは歌舞伎の演目としても有名な作品なので,知っている諸兄諸姉も多いに違いない。
 こうして奥州へと到着した義経一行は,藤原秀衡(ふじわらのひでひら)の庇護のもと,平和な日々を暮らすことになる。だが,それも恒久的なものではなかった。藤原秀衡が亡くなり泰衡が跡を継いだが,源頼朝の圧力に屈してしまい,義経一行のいる衣川の館を襲ったのである。弁慶は薙刀を振るって応戦したが無数の矢を受けて仁王立ちのまま絶命したという。「(弁慶の)立ち往生」という言葉は,進退きわまることを指した言葉だが,このエピソードがもとになっているようだ。

 岩融(いわとおし)について 

 弁慶が振るった武器は,岩融という名の薙刀であったらしい。現存していないのが残念だが,刃の部分だけでも三尺五寸(105センチ)もの大きさがあったと伝わっており,当時の標準的な薙刀は刃の部分が75〜90センチで柄の部分は120〜150センチだったとから考えると,常人が扱うにはやや難しい巨大な薙刀であったようだ。
 作者については,一説によれば伝説的な鍛冶である三条宗近の作との話もある。さすがに武蔵坊弁慶が三条宗近の薙刀を持っているかと問われると少々難しい気もするが,武芸者などと戦って999本もの刀を集めた弁慶が使っていたというのだから,作者は不明でもかなりの業物であったことは間違いないだろう。

 弁慶とは単なる暴れん坊との印象が強いが,関を越える話を見る限りでは,武芸だけではなく機転も利く知恵者であったようだ。また,これは私見だが,父に殺されそうになったとはいえ,それを許せるほどの器量も持ち合わせていたように思える。というのも,弁慶という名前は父の「弁しょう」と,比叡山時代の師「くわん慶」からそれぞれ一文字をもらって付けたものであり,父や師を敬う気持ちがなければ弁慶と名乗ることは考えにくいからだ。
 また,1000本の刀を集めるという行動も実は自分に課した願掛けであり,強者として己の力を示すというだけでなく,不遇な人生を変えるべき何かを手に入れるための祈願だったように思える。1000本の刀は手に入らなかったが,1000本めにして源義経という主君を得たことは,弁慶にとっては願がかなったといってもよかったのかもしれない。



■■Murayama(ライター)■■
Murayamaが子供の頃,父親に「ピクニックいこう!」と言われて行った場所が,義経達が逃避行で越えた峠だったそうだ。誰もいなくて,しかも恐ろしく急な峠,そんなところでおにぎりを食べて帰ってきたという。なぜ父親が突然そんなところに行こうと思ったのかは,未だに謎らしい。ほかにも小学生のとき,たまたま電車の事故で降車を余儀なくされた思い出の地が平泉で,衣川の館を訪れてみたり,知りもしないで京都の五条大橋を歩いていたりと,義経とは何かと縁が深い人生を送っている。しかし,現在NHKの大河ドラマが「義経」だということを,まったく知らないのはいかがなものかと。