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【鈴木謙介】「ハードの進化と〈ゲーム〉性」
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印刷2010/06/01 10:30

連載

【鈴木謙介】「ハードの進化と〈ゲーム〉性」

鈴木謙介 / 社会学者

画像集#001のサムネイル/【鈴木謙介】「ハードの進化と〈ゲーム〉性」

鈴木謙介の「そこ見るんですか?」

ブログ:http://blog.szk.cc/


美しくなるゲーム画面


 あれは,ちょうどスーパーファミコンが発売になる直前のことでした。とあるゲーム雑誌で,ファミリーコンピュータを超えるすごいゲーム機が出るぞということで,特集が組まれていたのです。
 そこには,新しいファミコンでは,背景を拡大したり縮小したり,回転したりもできるんだぞ,と書かれていました。

 当時から生意気なガキだった僕は,はあ,それがどうしたの,と思ったことを覚えています。その後「F-ZERO」をプレイして,確かにこりゃすごいや,と意見を変えましたが,RPGでの敵とのエンカウントや,アドベンチャーでの画面切り替えなど,意味もなく拡大・縮小・回転が多用されていたりすると,ちょっと飽きるな,と感じたのも事実です。

グランド・セフト・オートIV
画像集#002のサムネイル/【鈴木謙介】「ハードの進化と〈ゲーム〉性」
 近年,ゲームハードのスペックはスーパーファミコンの頃の想像力をはるかに超えるところまで到達していますが,なんとなく昔と似たようなことが起きているよな,と感じることがあります。
 個人的な好みの話をすれば,PlayStation 3でもXbox 360でも,なんだか買うゲームがどれもこれも似たようなプレイヤー視点を取り入れているのに少し驚きました。
 具体的には,「グランド・セフト・オートIV」「バイオハザード5」「龍が如く4 伝説を継ぐもの」「ファイナルファンタジーXIII」あたりですね。これらはみな,プレイヤーキャラクターの,あるいはそのキャラを背後から見る視点を中心にして進むゲームです。いや,「塊魂」のようなゲームもありますし,僕の好みが偏っているだけかもしれませんが。

 ただ,そういう偏りを離れても,それぞれ別のシリーズとしてリリースされてきたゲームが,ハードウェアの進化で同じようなスタイルにたどり着く,というのはちょっと奇妙な現象です。
 そしてさらに面白いのは,これらのゲームはいずれも美麗でリアルなグラフィックスを売りにしていて,GTAや龍が如くなんかは,現実の都市空間そっくりの舞台が設定されているということもです。

「Second Life」
画像集#005のサムネイル/【鈴木謙介】「ハードの進化と〈ゲーム〉性」
 これらを見ていて思い出したのは,いまや「たまには思い出してあげてください」扱いになりつつあるウェブサービス「Second Life」です。
 そういえばPS3にも「PlayStation Home」という仮想空間サービスがあります。こういった「メタバース」と呼ばれるサービスが登場した頃,批判的な人達からは「八頭身のキャラクターがリアリティのある空間を動き回るゲームなんて,日本では流行らない」なんて言われてましたけど,気がつけば人気タイトルの多くが,八頭身キャラのゲームになっていますよね。

 今回,僕が考えたいのは,ゲームのハードウェアスペックが,そこで遊ばれるゲームの〈ゲーム〉性を決めてしまうかもしれない,ということです。
 ネット上でのレトロゲームの人気を考えても,ハードウェアが進化するほど,ゲームが面白くなるわけではないことは明らかですが,ハードウェアの進化によって,それまでは遊べなかったようなゲームができるようになるのも間違いありません。
 なのに,ハードウェアのスペックが〈ゲーム〉性を決めてしまうのだとすれば,僕達のゲーム体験は,進化によってむしろ貧しくなってしまうことになります。


体感ゲームの時代


バイオハザード5
画像集#003のサムネイル/【鈴木謙介】「ハードの進化と〈ゲーム〉性」
 ここまでの連載で僕は,ゲームの中に現れる〈ゲーム〉性,つまり,遊びの要素を生み出すものは何か,あるいはそもそも,遊びとは何か,そんなことを書いてきたのですが,実はこういうアプローチは,社会学のゲーム研究としては割と古典の部類に属しています。
 言ってみればそれは,ビデオゲーム以前の「ゲーム」を対象にしたもので,技術が進化しても変わらない〈ゲーム〉の本質について考える材料にはなりますが,日々進化する技術が,どのようにして〈ゲーム〉を生み出すのかについては,あまり考えられていません。

 一方で,ビデオゲームが学者の研究で取り上げられる際には,画面の中での暴力行為が,どの程度現実の暴力行為に関係するかといったテーマや,ゲームのキャラクターへの感情移入によって,他者との関係の仕方が変わるかといった,「現実と虚構」の境目に関するテーマが多く,正直,ゲームだけじゃなくて映像メディア全般に言えることじゃね? という話が多いわけです。
 それはそれで大事な話ですが,少なくとも「ゲームだから」ということではない気がします。

 では,ビデオゲームならではの〈ゲーム〉性に関係する要素とは何か? 前回からの続きになりますが,ビデオゲームがほかのメディアと違うのは,なんらかの入力を必要とすることと,インタフェースの特殊性にあります。
 また,前回はコントローラという入力装置にこだわりましたが,それ以外でも,アーケードゲームにありがちな「体感型」の入力装置,つまりガンシューティングの銃とか,レーシングゲームのアクセルやハンドルなんかが挙げられます。

 1985年の「ハングオン」に始まり,「スペースハリアー」「アフターバーナー」,そして1990年の「R-360」へと至る「体感ゲーム」と呼ばれた一連のアーケードゲームは,シートが傾いたり回転したりと,プレイヤーの入力の結果が全身へフィードバックされるという特徴を持っていました。
 ポリゴン化が進む以前の技術でゲーム画面内の臨場感を出すのには,相当の苦労があったようですが,いま見てもその表現力には驚かされます。
 しかしそうした画面表現も,筐体との連動があってはじめて「本物っぽい」ものとして体験されていたはずです。

 その後,バブル崩壊の影響もあってか,高額な体感ゲーム筐体は一時的に姿を消し,代わって格闘ゲームと音楽ゲームの時代がやってきます。近年では,ICカードによるスコア管理や通信機能を持った大型筐体ゲームも再登場していますが,局地的なブームにこそなれ,大きなブームの再来には至らないようです。


視点が作る臨場感


龍が如く4 伝説を継ぐもの
画像集#004のサムネイル/【鈴木謙介】「ハードの進化と〈ゲーム〉性」
 アーケードよりも家庭用ゲームの方が注目されるようになった理由は,いろいろあると思うのですが,そんな家庭用ゲーム機も,描画能力や処理能力という点ではアーケードと比べても見劣りしない,というか,むしろ超えてしまっている部分すらあるというのが現状でしょう。
 では,体感ゲームに見られたような「臨場感」という点ではどうでしょうか。

 大きな変化として挙げられるのは,何より画面が大きくなったこと,そして,デジタル化によって画面解像度が上がったことがあります。つまり,精細度が高くなったわけです。そのほかにも,フレームレートの向上や音声のサラウンド化など,「臨場感」を高めるための仕掛けは,非常に充実してきました。

 それにも関わらず,現代の家庭用ゲーム機は,いまの基準からすればチープでフレームレートも低い画面でプレイされていた体感ゲームの臨場感を超える“体験”を提供できていないように思えます。というより,体感ゲームの「臨場感」と,家庭用ゲームの「臨場感」は,まったく別の感覚なのではないか,と思わされるのです。

 ヒントは,臨場感を持たせる仕掛けが,〈ゲーム〉に対して果たしている役割です。体感ゲームとは,どのようにプレイされるゲームだったのでしょうか。
 よほどのことがない限り,筐体が高価な体感ゲームは,ゲームセンターやプレイランド,アミューズメントスポット(呼び方はなんだっていいんですが)に一台しか設置されておらず,それゆえときには順番待ちの列ができることもありました。
 そのため,自機がやられてしまってもコンティニューは許されない。ということは,前にプレイしている人間のプレイをよく見て,攻略方法を頭の中で組み立てないと,ぶっつけ本番でゲームプレイに臨むことになってしまいます。「並ぶ」というところから,〈ゲーム〉は始まっていたわけです。

 そんな状態ですから,順番が来てコックピットに乗り込んだプレイヤーは,独特の優越感を味わうことになります。いまこのゲームをプレイできているのは自分だけだという感覚,一瞬にしてやられてしまったら恥ずかしいという緊張感,なけなしの小遣いをつぎ込んでいる勝負感。
 そんな,まるで福本伸行先生のマンガ「カイジ」のような感覚を胸にしながら座る特別なシートが,体感ゲームの筐体だったのではないでしょうか。

 現代の家庭用ゲームには,そうした優越感はありません。あくまでゲームは自分にとってのものであり,そこで得られる臨場感も,自分だけが感じるものです。ファイナルファンタジー XIIIをプレイしているのを横目で見ただけ,という人に何人か話を聞く機会がありましたが,多くの人が「見た目がきれいだよねー」と言っていました。
 自分で操作しない限り,画面の中の臨場感は,あくまでも映画のように流れていくもので,「ながら見」できるようなものでしかない,ということなのかもしれません。

 こう考えていくと,最近のゲームでプレイヤーキャラクターを背後から見る視点が多用されがちな意味も理解できます。こうした視点は,FPSのような完全な一人称視点でもなければ,映画のカメラのような三人称視点でもない。強いていえば,プレイヤーキャラクターの背後霊とかスタンドとか,そういう存在の視点です。
 つまり,ゲーム画面に表現されているのは、プレイヤーキャラクターに憑依した視点(あるいは,それに近いもの)だということなのです。

 そのため,プレイヤーにとって臨場感を感じられるような視点でグラフィックスを構成することが,画面デザインの目標になります。たとえどんなに美麗なグラフィックスでも,数百人の兵士が一斉にリアルタイムで戦争するのを眺めているだけでは,「映画と同じ」という風に見えてしまうでしょう(実際,映画のアクションシーンでは,観客に対して臨場感を持たせるために,画面のこちら側=自分に向かってモノが飛んでくるような演出を入れることがよくあります)。
 要するに,最近のゲームに見られる視点というのは,ハードウェアの描画能力,そして画面の大きさと解像度をうまく活かして,プレイヤーにリッチなゲーム体験をしてもらうための,重要な戦略だったということでしょう。
 逆を言えば,家庭用ゲーム機のハードウェアとしての進化は,それをプレイヤーにアピールするために,必然的にこうした視点で美しいグラフィックスを見せるゲームを生んできたということです。このことは,当時の最新技術ですばらしい背景を描いた「ファイナルファンタジーVII」が,その背景にこだわりすぎたがためにプレイヤーキャラクターを見失うことが多くなり,操作しにくいといわれていたことを思い出すと,納得がいくんじゃないでしょうか。


スペックと〈ゲーム〉性


 もしかすると,僕がかつての体感ゲームを懐かしんで,最近のゲームはつまらないと言っているように読めたかもしれません。ですが,決してそんなことはないのです。
 確かに体感ゲームには,その場にいなければ得られない〈ゲーム〉性がありました。しかしその一方で,ゲーセンという場所の制約上,大きなお兄さんに割り込まれたり,1ゲームあたりの単価がほかより高くて子どものお小遣いでは厳しかったりと,誰もが楽しめるモノでなかったことも確かです。それに比べれば,美しい画面で魔法やアクションが飛び交うゲームを独り占めできるいまの子供達は,幸せだと思います。
 僕が言いたかったのは,ハードの性能を最大限に引き出すことが,必ずしも〈ゲーム〉性を高めるとは限らない,ということです。そして,ゲームの「臨場感」も,ハードウェアスペックという一つのモノサシで決まるのではなく,〈ゲーム〉の設計自体で様々に作り込むことができるということです。
 スペックを活かし切った〈ゲーム〉を設計するためには,大きな努力と予算が必要ですが,それがかえってゲームの多様性をそこなってしまうのだとしたら,それとは違う発想の〈ゲーム〉がないか模索してみるということも,大事なのではないでしょうか。

■■鈴木謙介(関西学院大学准教授)■■
社会学者として教鞭を執る傍ら,TBSラジオ「文化系トークラジオ Life」のメインパーソナリティも務める鈴木氏。大学での講義が始まってからというものの,ゲームで遊ぶ時間はもっぱら職場への行き帰りや,出張の新幹線の中ばかりで,携帯ゲーム機の稼働率が高くなっているそう。でも本音を言うと,大画面で存分にゲームしたいのだとか。
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