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総勢100名以上の“ハンター”たちが阿佐ヶ谷地下に集結! 苦節17年の苦労話を開発陣が語る「メタルマックス・トークライブ 〜メタルマックスを創った男たち〜」レポート
「メタルマックス」は,今から19年前の1991年5月24日に発売されたファミリーコンピュータ用ソフトに端を発した人気RPGシリーズ。荒野を舞台にした独特の世界観と,主人公(プレイヤー)が戦車を操ってモンスターと戦うという,一風変わったコンセプトが大きな特徴で,“戦車”を中心に据えたゲームデザインや自由度の高いシステムが話題となり,今なお熱狂的なファンを多く有することでも知られる。
1993年にはスーパーファミコンで「メタルマックス2」が,1995年に初代のリメイク版「メタルマックスリターンズ」がリリースされたが,以降は権利関係の問題や新作の開発中止などのトラブルに見舞われ,シリーズの継続が危ぶまれてきた。
2010年7月29日に発売された「メタルマックス3」は,文字通り紆余曲折を経て発売にこぎ着けたわけだが,今回のイベントは,そんなメタルマックスシリーズのこれまでの経緯などを,裏話を交えて語ってしまおうというものである。
「メタルマックス3」公式サイト
檀上には,ゲームデザイン・シナリオ担当の“ミヤ王”こと宮岡 寛氏,ゲームデザイン・ディレクション担当の田内智樹氏,キャラクターデザイン・アートワークを手掛ける山本貴嗣氏,サウンドを手掛ける門倉 聡氏,そしてシークレットゲストとしてメタルマックスの開発にも携わったゲームデザイナーの桝田省治氏ら,文字通りの「メタルマックスを創った男達」が登壇。会場となる阿佐ヶ谷ロフトAには,メタルマックスシリーズを心から愛する100名以上の“ハンター”たちが集まり,開発陣の熱いトークに耳を傾けた。
司会進行を務めたのは,初代メタルマックスの開発陣の一人であり,また今回のイベントの企画者でもあるクリエイターのとみさわ昭仁氏と,サブカルイベントの名物MC・セラチェン春山氏の両名だ。
宮岡 寛氏。メタルマックスシリーズほとんどの開発に関わるクレアテック代表。かつて少年ジャンプの「ファミコン神拳」のコーナーでは“ミヤ王”として活躍していた |
田内智樹氏。かつて所属していたデータイースト時代から,宮岡氏とともにメタルマックスシリーズの開発に関わるクリエイター。現在はフリーランスとして活躍中 |
山本貴嗣氏。漫画家として活躍する傍ら,メタルマックスシリーズではキャラクターデザインやアートワークを担当。宮岡氏とは中学時代からの同期で,ともに劇画村塾の一期生なのだという |
門倉 聡氏。槇原敬之,サザンオールスターズなど多くのアーティストのプロデュース,編曲などをするミュージシャンにして,シリーズ全てのサウンドを担当する。ゲームマニアな一面も…… |
桝田省治氏。メタルマックス1と2のほか,「桃太郎伝説」「天外魔境」「リンダキューブ」「俺の屍を越えてゆけ」など,数多くの人気ゲーム作品を手掛けてきたゲームデザイナー |
とみさわ昭仁氏。初代メタルマックスでは企画/シナリオ補佐として参加。その後も数々のゲーム制作に携わるほか,ライターとしても活躍。今回のイベントを企画/主催した |
山本氏が手掛ける「ミヤ王昔ばなし」で大盛り上がり
この紙芝居は,小学生だった頃の宮岡氏のエピソードが,メタルマックスの世界観に合わせた作画で展開されていくもので,宮岡氏がTVドラマ「ラット・パトロール」の真似をして怪我したところを,通りかかったワイルドなガス屋さんに助けられるというストーリー。物語の舞台は,お二人の故郷である山口県防府市にある防府天満宮なのだが,これがメタルマックス2で登場する町「タイシャー」の原点なのだという。
「発売までは,本当に気が気ではなかったです。その事情は,皆さんならよくご存じだと思いますけど(笑)」と,念願の発売に安堵する宮岡氏に対して,門倉氏が「メタルマックスというタイトルを冠した作品が発売されるまで,本当に大変でしたよね」とコメント。
さらに門倉氏は,「それこそ『メタルサーガ』の時などは,もうとにかく“メタル”ってついていればなんでもいいじゃない? なんて宮岡さんと話していました」と,当時の心境を打ち明ける。
一方,データイーストが事実上の解散になったあと,各社を転々としていた田内氏は,ドリームキャスト時代に企画が持ち上がったが発売に至らなかった「メタルマックスワイルドアイズ」を含め,自身が参加していたいくつかの企画について昔話を披露。またメタルマックス3についても,元々は田内氏がエンターブレインの久保武史氏(メタルマックス3のプロデューサー)と酒の席で開発談義を交わしたことが,大きなきっかけになったのだと語る。
当時の名物プロデューサー,桝田省治氏登場!
ここで今回のトークライブのシークレットゲストが登場。来場者の誰もが登場を期待していた,メタルマックス1と2でプロデューサーをつとめた桝田省治氏だ。ここからは桝田氏を交えて,メタルマックス初期シリーズのトークへと突入していく。
「広告代理店のサラリーマンだった当時,発売元だったデータイーストから,2年に1度しか出せない『ヘラクレスの栄光』の間をつなぐ作品の企画を任された。1作目はあまり売れないだろうけど,2作目で採算が取れるシリーズならできますよ,と答えた覚えがあります」と,当時のいきさつを解説する。
当初はプロデューサーとして,どちらかというと,ビジネス面や広報面を担当していたという桝田氏。しかし開発がスタートしてからは,本来なら直接関わらない現場での仕事(開発業務)に携わることになったのだという。その理由について桝田氏は,「だってどう考えても開発が間に合わない。プロデューサーとして黙ってられないじゃない」とのことで,仕様策定などの面で宮岡氏を手伝っていたそうだ。
またメタルマックスといえば,忘れてはならないのが独特のサウンドなわけだが,そんなシリーズの楽曲を手がける門倉氏は,かつて宮岡氏が開発していたソフト(この作品はと発売されなかった)などを手がけていた時に起用した人物である。
門倉氏は,「当時はまだDTMもなくて,PC-9801で作っていたんですが,3音+ノイズ1音でロックの音を作るのにすごく苦労して完成したのが,あの1の濃い曲なんです。1があれだけ濃かったから,それ以降のシリーズも濃くせざるをえなかったんです(笑)」と,当時を振り返る。
田内氏によれば,当時データイーストには“ゲーマデリック”というサウンドチームがあり,外注のアーティストである門倉氏に依頼することには猛烈な反発があったらしい。しかし,実際完成してみるとそのクオリティがとても高かったため,その後は反発も消え,サウンドチームと共同で制作が進められたのだという。
もう20年近く昔になろうかという時に書かれたこの企画書を見ながら,宮岡氏は,「メタルマックスは,僕が今まで作ってきたゲーム中で,一番すんなりゲームデザインが完成した作品なんです。タイトルを思いついてから,とにかくアイデアがスラスラ出てきた」と,メタルマックスに対しての思い入れを語っていたのは印象的であった。
実は,メタルマックスに取り組む前に宮岡氏がゲームデザインを手掛けた作品が開発中止になってしまったこともあって,「できれば楽して作りたかった(笑)」というのがこのメタルマックスなのだとか。
当時の次世代機であるスーパーファミコンが登場する前に発売される予定だったメタルマックスだが,実際に作り始めてみると企画はどんどん大きくなり開発は長引き,結局はスーパーファミコンが登場した後の1991年に,ようやく発売されることとなった。「1の開発は長引いたよね」という宮岡氏に対し,山本氏が「1が長引いたんじゃなく,全部長引いてる」とツッコミを入れ,会場の全員が大爆笑。
桝田氏は,「普通のRPGではやらないようなことばかりやっていたので,誰にも仕様や完成形を予想できなかったことが遅れた原因でした」とコメントしながら,宮岡氏を指差して「プレイヤーが自走不能になるRPGは普通ないですよね(笑)。そのとき,この先生が言った言葉が“リセットすりゃいいじゃない”ですよ(笑)」と,当時の開発陣のやりとりを語った。
また,メタルマックスの企画についての話で面白かったのが,とみさわ氏のアイデアについてかもしれない。なんでも,「関東をイメージしたマップの中で,千葉に位置する場所に“ファンタジアランド”という城を作って,そこの店の店員が語尾に“〜ファンタジア”と付ける」というものらしいのだが,容量の都合でカットされたのだという。
「くだらねぇ(笑)」という一同に対して,「若いときのアイデアを今言われると,本当に恥ずかしい」と顔を赤らめていたとみさわ氏。すかさず「ライターとしても活躍していたとみさわ君の書くメッセージはすごく面白かったよ」とフォローを入れる宮岡氏だが,とみさわ氏は「僕の書くメッセージがくどくど長いのに対して,宮岡さんのメッセージはすごく短くて切れ味もあるんです。そこには当時ミヤ王として活躍していた“少年ジャンプイズム”があったと思うんですよね。それがドラクエやメタルマックスに生きているんですよね」と返した。
※注:宮岡氏は,「ユウ帝」こと堀井雄二氏に誘われて,ドラゴンクエスト1〜3の制作に参加している
門倉氏生演奏によるライブ演奏
全部で3時間にも及んだ本イベントだが,途中挟まれた休憩の前には,門倉氏が現在製作中のメタルマックス3のサントラに収録される「Dr.ミンチに会いましょう」の新アレンジバージョンを生演奏するという,嬉しい演出が挿入された。ファンには聴き慣れたコミカルな曲ではあるが,ピアノアレンジされたしっとりとした楽曲に,来場者の誰もが聞き惚れていた。
続いて,もう一人のシークレットゲストの水野真菜三さんが登場。水野さんのギターとボーカル,そして門倉氏のキーボードによる,メタルマックス3の主題歌「炎つぐもの」の生ライブがスタート。こちらも落ち着いたアコースティック曲にアレンジされて,来場者は熱いトークの合間の満ち足りたひとときを共有していた。
メタルマックスシリーズ制作秘話,否,悲話!?
基本的には「オフレコでお願いします」とのことだったので,ここで詳しく書くことはできないが,ファンであれば周知のように,主に商標や権利の関係で,さまざまなトラブルが続いていたそうだ。
そんな中でも「プレイステーションでメタルマックス3を」などという話も持ち上がっていたようで,システムや賞金首すべての名前などはほぼ決まっていたというが,こちらは開発予算の都合で,そのまま立ち消えに。
一方それとは別に,アスキーから外伝となるドリームキャスト版「メタルマックスワイルドアイズ」の企画が出され,こちらは実際に制作に取りかかることになる。
当時を振り返りながら宮岡氏は,「そのときクレアテック社内では,MMORPGの『EverQuest』がすごく流行っていて,ワイルドアイズではそこからかなり影響された要素が多々ありました(笑)」と語る。筆者の知る限り,良くも悪くもEverQuestの洗礼を受けた業界人は少なくないわけだが,宮岡氏も,そんな洗礼を受けた一人だったわけだ。曰く「それこそ,会社でずっとゲームしているくらいで……。廃人クラスですよ(笑)」という。
EverQuestにまつわるエピソードでは,当時開発中だったワイルドアイズは,フル3Dでマップやキャラなどを表現していたらしいのだが,ドリームキャストのゲームでありながらも「ローディングがなく,シームレスで歩き回れるように設計していた」のだいう。 苦笑いしながら「作業的にかなり大変だったんですが」と語る宮岡氏だが,自分が遊んでいたEverQuestでは,マップの切り替えで長い読み込みが入るのを見て,「あ,ここまで作り込まなくても良かったんだ」と思い知らされたという。
残念ながら日の目を見ることがなかったワイルドアイズだが,もし実際に発売されていたら,シームレスなマップ移動などは,かなり評価されていたのではないだろうか。
会場内に貼られた“賞金首”たちの貼り紙は,なんととみさわ氏の手製のもの。「タバコで焦がして弾痕をつけようかと思ったが,3日かかるからやめた(笑)」という。持ち帰りOKだった |
今回のイベントのスペシャルドリンクとして,ゲーム中に登場する3種類のドリンクが用意された。どれも開始早々に売り切れてしまったのだとか |
ワイルドアイズは,とにかくマップが広大なゲームだったようで,「マップをチェックするために,デバッグモードで全域を歩いてみたんですが,全てを歩いて埋め尽くすのに8時間かかりました。町のシンボルが見えてから,到着するまで3分かかるんです(笑)」と田内氏。しかもゲーム内の設定では,時速300km/hで走っているというからものすごい。それに合わせて楽曲も「かけっぱなしで聴いていられる,アンビエント的な曲を作った」という門倉氏。さらにはオープニングアニメのために山本氏が描いた絵コンテに合わせたオープニング曲や,戦車に組み込む“Cユニット”をしゃべらせるための4種類のボイスなど,いわゆるプリプロ的な段階までは制作が進んでいたようだ。
ちなみにシナリオが完成した時点で,外注先の開発会社に見積もりを出してもらったそうで,そのとき「3000人月かかると言われた」とのこと。まぁ要するに,いろいろと「やりすぎた」ワイルドアイズだったのだが,こちらも前述の通り,アスキーの家庭用ゲーム事業撤退により,またも発売中止に見舞われてしまうのだった。
その後,クレアテックはノータッチであるゲームボーイアドバンスの「メタルマックス2改」がナウプロダクションより発売,そしてサクセスからは実質の後継となる「メタルサーガ」シリーズが発売されることになる。
メタルサーガの1作めとなる「砂塵の鎖」の開発途中から参加した宮岡氏だが,「メタルマックスがもう作れないと思って,本当に死のうかと思った」というところまで心が折れたのだという。
商標の問題がクリアされ,動き出したメタルマックス3
宮岡氏は,「エンターブレインさんからも,とにかく商標のことはクリアしなければならないという話があったので,ちょうどその頃メタルマックスの商標を持たれていた会社の社長さんと,直にお会いして話をしたんです。実はその社長さんは昔ゲームを作っていた方で,僕らの気持ちを理解してくれて,そこでやっと商標に関する問題がクリアになったんです。そこでついに光が差しましたね」という。
この会社(と社長)の協力があってはじめて,メタルマックスの正式なナンバリングタイトルを発売することができた。宮岡氏は,「この場で重ねてお礼を言いたい」と,企画スタートの経緯をしみじみと語っていた。
プロジェクトが正式にスタートしてから,宮岡氏は,メタルマックスのオリジナルメンバーに声をかける。「僕は,限られた予算のなかで,これでやって頂けますかとお願いする立場ですから」と,制約も決して少なくはなかったようなのだが,宮岡氏が「正当続編」にかける意気込みは,並々ならぬものがあったようだ。
オファーをもらった門倉氏は,「17年の間にワイルドアイズやメタルサーガもあったので,ずっとメタルマックス自体は続いている印象はありました。ただ実際に作る段階になると,すごく悩んだんですよ。DSの音源ということと,ナンバリングタイトルだったことで,実際にどう表現していいのかわからなかったんです。自分の中ですごく悩んだ結果,原点に戻そうということになって,昔のメタルマックスを思い出すような作り方になったんですよね」と話す。
コンセプトデザインを手がける山本氏も,「相次ぐ開発中止の経験などもあって,ゲームの仕事は金輪際やらないと決めていたんです。けど,“ベストを尽くして仕事をすれば,オチはどう転んでもいい”と,僕自身の人生観が変わったときに,ちょうど宮岡さんからオファーを頂きました」と,プロジェクト参加に至る心境の推移を語っていた。
大好評の「メタルマックス3」。ファンの関心はもちろん続編へ
なんでも,発売後のプレイヤーの反響に戦々恐々としていた宮岡氏は,「どういう反応があるかわからないから,イベント開催は少し待ってくれ」と,主催者であるとみさわ氏に伝えたのだとか。
山本氏などは,「反応を待たずにやったら,この場が謝罪会見になっていたかも(笑)」とジョークを飛ばして会場を沸かせていたが,メタルマックスのこれまでの経緯を考えると,宮岡氏の心労たるや想像に難くない。
メタルマックス3が一定の成功を納めたという話を受けて,話題は,ファンなら誰もが気になる次回作の話へ。
もちろん,現段階で詳しい話はできるはずもないのだが,宮岡氏・田内氏は「もし作るとしたら」と前置きしつつ,「1の自由さ,2のインターフェイスや改造の自由度さ,そして3の戦闘の面白さをミックスしたものを作りたい」とコメント。
さらに桝田氏も「17年も古びないコンセプトって素晴らしいよね。1は儲からなかったけど,やっと時代が追いついた。僕がプロデューサーだったら,そろそろ続編決めると思うよ!?」と合わせ,会場からは大きな拍手が沸き起こった。
宮岡氏は最後に,「みなさんのおかげでここまでたどり着くことができました。はっきりとは言えないですが,これからもどんどん作っていきます!」と,意味深な挨拶をしてイベントを締めくくった。
多くのファンを抱えるシリーズでありながら,長い間日陰を歩くことを余儀なくされてきたメタルマックス。3が高い評価を受けた今,シリーズ完全復活への道筋もはっきりと見える状態になった。「4」への期待を膨らませつつ,今後の宮岡氏ら,開発陣の活躍に期待したいところだ。
最後に。このイベントの記事を読んでいる人の中で,当時メタルマックスシリーズを少しでも遊んだことがある人は,ぜひ今回のメタルマックス3も遊んでみてほしい。当時のままの開発陣の熱意とこだわりを,ゲームのそこかしこから感じることができるはずだ。
「メタルマックス3」公式サイト
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