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ゲーム評論不在の日本で,評論の場を興す試み。GLOCOMのRGN
2006/04/21 23:55
■語られるもの,プレイされるものとしてのゲーム

 去る4月8日,国際大学GLOCOMで,RGN(Research on Game design and Narrative。コンピュータ・ゲームのデザインと物語についての研究会)の第1回が開催された。
 RGNはオタク系サブカル文化論をリードする論者の一人である東 浩紀氏(「動物化するポストモダン オタクから見た日本社会」などの書籍で知られる哲学者)の研究室が主催して構成される研究会である。
 RGNの狙いは,日本でゲームアカデミズムを成立させることにある。米国で成立している「game studies」や,それに続く韓国での動きを視程に収めつつ,国内できちんとゲームを語れる枠組みを作ろうというものだ。
 研究会の名前にもなっているとおり,彼らがゲームを捉える視線は,ルドロジー(ludology。「ホモ・ルーデンス」という場合と同じ意味の遊び要素)に基づく狭義のゲームデザインおよび,ナラトロジー(narratology。語り)要素という,2本の軸から成っている。つまり,ゲームを何らかの「語られるもの」かつ「プレイされるもの」として見ていくということだ。

 話が抽象的で分かりにくいので,多少の語弊を恐れず例を挙げてみよう。プレイされるものとしての視点とは,「スペースインベーダーもDOOMも,『画面上に出現したエイリアンを防御陣地の背後から撃つ』という点では同じだよね。でもこれを同じって言うのはおかしい。マシンパワーの違いとかを考えてないわけだし。じゃあ,いつ,何が,どこで,どんなふうに,なぜ変わっていき,その途中でどんな新しいアイデアが生まれてきたのかを考えましょう」という感じのアプローチだ。
 これに対して「語られるもの」としての視点は「弾が1発当たったら死んでしまうFPSと,HPがなくなるまで自由に行動できるFPSがあるとする。後者は『リアルでない』ことになるけど,そもそも前者とて死んだらリスポーンする段階で何がどうリアルなのか。ゲームにそこまでのリアリティは不要というなら『そこまで』はどうやって決まるのか」といった考え方だ。

 欧米においても同様の論点は提示されており,日本国内のアマチュアレベルでのゲーム論でも,この2点をめぐる議論は活発に行われている。RGNでは以降月1回のペースで各ジャンルの開発者や研究者を招き,12〜15回を目安としてこの問題を軸とした研究会を開催するという。将来的には韓国のゲーム評論家パク・サンウ氏の招致も予定しているようだ。



■初回のテーマは,ゲームにおける死の表現

死の固有性と複数性の乖離がゲーム的現象であり,それを乗り越える試みが独自の表現を生み出す可能性につながると主張する,井上明人氏
 その第1回は,GLOCOM研究員で,自身のゲーム批評サイト「Critique of games」を運営する井上明人氏による「コンピュータ・ゲームにおける死の表現をめぐって」と題された発表と,それをめぐるコメンテーターとのディスカッションという形で行われた。
 井上氏の発表は,大塚英志氏(評論家,漫画原作者/小説家)が「キャラクター小説の作り方」(2003年,講談社)の中で行った「ゲームおよび『ゲームのような小説』においては,死の表現が表層的でしかない(小説や映画だって本来的には死を薄っぺらにしか描けないものだが,それでもクリエイター達は限界を意識しつつ,すごくがんばっている。ゲームとライトノベルはその点でまったくなっとらん)」という批判への反論を提示するとともに,ゲームにおける死の表現方法に関する新しい視点を提案するというものである。
 井上氏はまず,コンシューマゲームのRPGを中心に,76作品における死の表現を採取――つまり76作品において死んだり殺されてみたり殺してみたり――して,そこにおけるテキスト的,グラフィック的処理を記録整理し,ゲームにおける死の表現がどのように推移してきたかを分析した。本人も発表の中で述べていたが,かなり陰鬱な作業であったのは間違いない。そして,1980年代まではコンシューマタイトルにもダイレクトな死の表現があったが,1990年以降は技術的または規制上の理由により,死の表現は過激化と婉曲化の二方向に分離していく,と結論づけている。
 そしてその現状に対し,過激化した表現には社会的な悪影響が論ぜられ(近年ではGTA3に対する非難が最も分かりやすい例),婉曲化した表現に対してはその欺瞞に対する批判が,そして双方の表現に対して「いずれにしてもチープな死の表現に過ぎない」という批判がなされてきたのである,とした。
  そうした現状認識をもとに,井上氏は「ゲームにおける死」には,ここで議論されていない軸があるのではないか,と問題を提起する。それは,同じ「ゲーム」という構造の中に,ゲームとは表現手段であり,そこでの死は現実の死の描写に連なる(ノベルゲームが最右翼)と考える「死の固有性」極と,ゲームとは試合であって,そこでの死とは敗北やセットバックを意味しているにすぎないと考える「死の複数性」極を持つ軸があるのではないか,という指摘である。
 この立論をもとに,井上氏は1980年代後半以降のRPGを分析,死の固有性と死の複数性という矛盾する両極が,ゲームにどのように表れていたかを調査する。ここで井上氏が注目したのが,ファイナルファンタジーシリーズにおいて「しぼう」が「せんとうふのう」に変化していった事例や,戦闘で倒した敵が,戦闘終了時に逃げ去ってしまい,最終的に同じ敵と何度も戦うような演出が登場するという事例である。
 これは,戦闘という行為が試合のように「死の複数性」を前提とするものに変化するとともに,死は物語の進行(プレイヤーが介入できないビジュアルシーンなど)の中でのみ,その「固有性」を発揮するという文法の成立である,と井上氏は定義する。
 その具体例として井上氏が提示したのが,「ファイナルファンタジーVII」(以下,FF7)のエアリスであった。エアリスはFF7において,プレイヤーが操作するキャラクターであるが,とあるイベントで死んでしまう(その後登場しない)。その一方で,FF7では戦闘中にHPが0になると,死ぬのではなく戦闘不能になるだけ,という設定になっている。エアリスは何度でも「戦闘不能」になるが,「死ぬ」のはイベントシーンにおいてのみなのだ。

 井上氏はさらに,死の固有性と複数性が要素として乖離し,相互に介入できない事例が生じる一方で,別のさまざまな試みがなされている現状も指摘する。死と戦闘の関係では従来の「せんとうふのう」を採用しつつも,独自の条件を導入して固有の死を発生させる「ロマンシング・サガ」や,死んだら死んだでそこまでという「ファイアーエンブレム」,戦闘自体に物語と死を不可分なものとして取り込んだ「タクティクスオウガ」などが例示された。
 ただし,それらの試みといえども結局リセットが可能であって,複数回のやり直しを前提としたものではないかという批判も想定できる。これについて井上氏は「ピクミン」を取り上げ,何匹となく死んでいくピクミンの死に際し,主人公キャラクターがその死を悼む日記をつけるというゲームシステムによって,そこでリセットしようがしまいがゲーム体験として固有の死を演出するといった,新しい試みはなされ続けていると主張する。ピクミン以外にも,戦闘を複数の視点から見せる「エースコンバット4」,免れがたい死を前にあがき続けられる「ワンダと巨像」,事実上回避できない死の前にあえて選択肢を置く「メタルギアソリッド3」などが,死の複数性と固有性をめぐる新しい取り組みとして,例示されていた。
 これらの事例と考察を通じ,井上氏は,ゲームプレイヤーは死の固有性と複数性の分裂を強く意識しており,そこで「お約束」とされる乖離がふと乗り越えられたり,あるいはその二重性を往復したりすることで,ゲームならではの死の表現が成立するのではないか,と結論づけて発表を終えた。



主に先行研究と物語論をめぐって,ユーモアを交えつつコメントした,濱野智史氏
 井上氏の発表のあと,ほかの参加者から井上氏の議論に対するコメントがそれぞれ行われた。コメントしたのは,井上氏と同じくGLOCOM研究員である濱野智史氏と,レトロゲームミュージックのサイト「VORC」の運営者でゲームの歴史に詳しいHally氏,ゲーム評論サイト「intara.net」を運営する茂内克彦氏,武蔵野大学現代社会学部 非常勤講師にして,自身のサイト「ゲームを語ろう」で評論を行う増田泰子氏の4名だ。

 そこでは「ゲームを物語と同じ論点で見ることは,果たして有益な分析方法になるのか」「大塚英志氏を出発点にすると,議論が既成の文脈に終始してしまわないか」「どんなに固有性を演出しても,ゲーム内の表現をどう読むかには読み手の問題が強く出てしまう」といった問題提起や,欧米におけるゲーム研究や事例の参照,FF7のエアリス復活デマに見られる「プレイヤーキャラクターは特権的存在であるはず」という意識の存在など,さまざまな論点と材料が付加された。



大塚英志氏への反論という形式の限界と,考察対象の問題からコメントを述べた,Hally氏
 その後の質疑応答でも活発な意見交換がなされ,こうした論題に対する関心の高さが浮き彫りになった。GLOCOMの講義室に集まった人数は50〜60名,井上氏も「これほどの人数が参加するとは思わなかった」という上々の滑り出しになった。
 批評家やマスコミ関係者はもちろん,ゲーム開発者達も出席しており,それも含めて大変に興味深い研究会だった。もっともその一方で,会全体としてブロークンな雰囲気があり,質疑応答で東 浩紀氏がコメンターや発表者に鋭い指摘を飛ばす場面も含め,いかにも大学生/大学院生ゼミといった空気が漂う空間だった。論題の絞り込みや転がし方には,まだまだ課題を残している印象だ。




■アカデミズム不在のゲーム大国日本

大塚英志氏の見解をめぐって,発表者とコメンテーターに厳しめの所感を述べる,東 浩紀氏
 このように盛況に終わった第1回RGNだが,直接議論された内容とは別に,考えさせられる要素が多かった。
 何よりも深刻な事態としてRGNが認識しているのは,日本はゲーム大国でありながら,アカデミズムに基盤を置いたゲーム論で後進国になりつつあるのではないか,という懸念である。今年のGDCにおいて,日本のゲームはいくつもの部門でグランプリを取りながら,国内でゲームをアカデミズムにのっとって議論する者は非常に少ない。
 今回の研究会の冒頭でも語られたとおり,欧米圏には,まずそもそもGDCやDiGRAといった大規模な会議が存在するだけでなく,「Gamestudies.org」という専門媒体もある。また,お隣の韓国では,これら英語圏の議論をもとにしたDST(デジタル・ストーリーテリング学会)が成立しており,その研究を批判し対抗する別の学派も出来ているという。

 では,日本でゲーム論を語る人が少ないかといえば,決してそんなことはない。むしろblogの普及に伴い,自分の論説をインターネットに掲載する手間は大幅に軽減されているし,事実blogでゲーム論を語る人は非常に多い。
 こういった日本の現状にあって,いま何より必要なのは,ゲーム論にまつわる文献や言説のアーカイブと,それを発表できるパブリックな空間ではないだろうか。
 前者に関していうなら,実際これまでいくつもの貴重なゲーム論が制作やプレイの現場で構築され,そして後継者がいないまま闇に消えてきている。例えば紙ベースのボードゲームが積み上げてきたさまざまな教訓や理論がまったく生かされないまま,同じ過ちや「発見」が繰り返されているのが現状なのだ。
 後者についていえば,どんなに卓越した議論を展開しても,それが個人のレベルで完結し,継承され,批判研究が積み上げられることは,まずあり得ない。
 実際,4Gamer読者にとって上述の井上氏の議論は,あまりにもコンシューマゲーム市場,RPGジャンルに寄りすぎているように思えるだろうし,オンラインゲームでは別の言説があり得るのでは,といった印象もあると思う。そこで必要なのは,完成された言説というより,別の考え方を持つ人が同じ地平で議論に参加していくことであり,そのための開かれた場なのだ。
 DiGRA2007が日本に誘致されることが決まったり,これに合わせて4月28日にDiGRA Japanが創設される予定だったりと,RGN以外にもアカデミズムに立脚したゲーム論が日本国内で構築される素地は整いつつある。ほかの文化圏のゲームを参考としつつも,独自の巨大なゲーム文化を築き上げた日本で,今後どのようなゲーム論が展開されていくのか,期待したいと思う。(アトリエサード 徳岡正肇)


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http://www.4gamer.net/news/history/2006.04/20060421235540detail.html