4Gamer:
先ほども少し話しましたが,ソーサリアンの開発スタッフは,今にして思えば,シナリオも音楽もグラフィックスも,非常に豪華なスタッフでした(※6)。その中でも自由にやれていたというのは,凄いことだと思います。
そうですね。ただ,ゲームというものがいまほどメジャーではなかったし,門戸もいま以上に狭かったですからね。ゲーム開発者の地位も確立されていなかったというのも,自由にやりたいことができた理由だったんでしょうね。
4Gamer:
一ゲーマーの立場で言えば,木屋さんや内藤さんは,文字どおりスタープログラマーで,憧れの存在でした。しかし,現場でも同じだったのでしょうか? 優秀なスタッフであるほど,まとめるのは大変そうですけど。
木屋氏:
当時のスタッフは,デザイナーにしてもコンポーザーにしても,たくさんの応募者の中から採用された優秀な人達ばかりなので,厳選されていたとは思います。でも,ゲーム作りなんか一度もやったことがない人達ばかりでしたから,素直に言うことに従ってくれていたんでしょうね(笑)。
4Gamer:
具体的には,どのようにまとめていたんでしょうか? 現代のような,チーム制だったのですか?
木屋氏:
もちろんチームはありましたが,優秀な人には自由にやってもらって,それを私がとりまとめるという感じでしたね。
4Gamer:
出来上がったグラフィックスや音楽を,このシナリオのこの場面で使おう,といったことですか?
木屋氏:
そうですね。
4Gamer:
そういったディレクションはどうやって行っていたんですか?
木屋氏:
そこらへんは全部,自分の感性でやってましたね。古代(古代祐三氏,ファルコム黄金期を支えた名コンポーザー)が作ってきた音楽なんかは,ホイっと当てはめてみて,「はい,これでオーケー」みたいな感じでやっていましたよ。
4Gamer:
古代さんは,ソーサリアンではかなりの数を作曲していましたよね。ボツになったものを入れたら,いったいどれくらいの曲数になるやら……。
木屋氏:
作ってましたねぇ。300曲くらい作ったんじゃないでしょうか。
4Gamer:
開発のプロセスについて,さらにお聞きしたいのですが,ザナドゥではゲームが一通り動くようになってから発売されるまでの,ブラッシュアップの期間が非常に長かったように記憶しているのですが,ソーサリアンにもそれは当てはまるんでしょうか。
木屋氏:
私の場合はいつもそうですね。作り始めてから,ゲームの基本的な部分が動くところまでで,大体1か月。残りは実際にプレイしながら手を加えていくんです。当時は,ゲームの開発期間もいまのように長くなかったですよね。
・イース
ご存じ,「イース」の1作目。当時のPCゲーマーにとって,ドラゴンスレイヤーシリーズは,その挑戦しがいのある難度の高さも魅力の一つだったが,逆に難度を低くすることで,幅広い層に支持を得たのがイースである
今では信じられないスピードですねぇ。でも,確かに当時,とくにファルコムの場合は,立て続けにゲームを出していましたよね。1987年にドラゴンスレイヤーIVにあたる「ドラスレファミリー」,そして今なお続く人気シリーズの1作目「イース」を出したと思ったら,翌1988年にソーサリアンと「イースII」を出すという。
木屋氏:
ええ。ですので,半年間でオリジナルの新作を作って,次の半年間でそれを他機種に移植する,というサイクルでやっていました。
そんな感じだったので,いまから振り返ると,とくに苦労をして何かを作っていたというよりも,ただ自分の好きなことを一生懸命やっていたように感じているんです。
4Gamer:
ただ自分の好きなことを一生懸命やっていた……単なる謙遜にも聞こえますが,非常に多くの人を楽しませた木屋さんの言葉だと考えると,胸に響くものがありますね。
(※6)……木屋氏や五十嵐哲也氏,山根ともお氏といった,ファルコムのベテランスタッフのほか,クリスタルソフトで「夢幻の心臓」シリーズを作っていた富一成氏もこの頃ファルコムに移籍し,ソーサリアンのシナリオを手がけている。さらにイラストレーターの都築和彦氏,コンポーザーの古代祐三氏など,そうそうたるメンツが結集しており,マニュアル執筆陣には,深沢美潮氏の名前も見られる。
前編はここまで。木屋氏がプログラマーとしてファルコムに入社したきっかけや,あのドラゴンスレイヤーが最初は趣味で作られていた,といったくだりは,当時夢中になって氏のゲームをプレイしていた人にとっては,感慨深いものがあるのではないだろうか。明日5月2日に掲載予定の後編では,ソーサリアンオンラインの開発にまつわるエピソードや,今後予定されている,木屋氏と電遊社とのコラボレーション,さらには木屋氏自身の今後の話まで,現在から未来にかけての話題をたっぷりとお伝えするので,お楽しみに!