今回紹介するのは,勝俣鎮夫の『一揆』。おおよそ鎌倉時代から江戸時代にわたる,日本の社会構成原理……などというと難しく聞こえてしまうが,要は「百姓一揆」「一向一揆」などというときの「一揆」なる言葉が,どういった意味合いと社会背景を持っているかを解説した本だ。
百姓一揆という,あまりにも有名な用例から,一揆とは漠然と民衆暴動のことだと捉えている人も多いと思うが,一揆とは「揆」を「一」にする,つまり統一行動をとる団体や同盟の成立を,神の前で誓う契約の一種だ。暴動と結びつくのも,暴動を起こす前にそれが必要だったということにすぎない。ではなぜ,中世の人々がそういった契約を行う際に,神様の前で誓約書を灰にして水に溶かし,全員で飲む「一味神水」(いちみじんすい)などという手続きが必要になったのか? それは,中世において自由意思や平等が,決して普通に存在するものではなかったからだ。
中世は主従制の時代であり,また私的関係と公的関係が切り離せる時代ではなかった。裁判の裁定者が,自分の身内や手下に有利な判決を出すのはある意味当然と思われていたし,身内や手下の側もそれを期待した。普遍的な公正・公平の概念は,むしろ例外的であり,それは人間の手では作り出せないものと認識されていたのだ。
そうした社会の有り様,主従関係や身分,勢力の優劣によって個人の行動/言動が制約されるなかで,意図的かつ臨時に成員相互が平等な共同体を作り出す行為が,一揆と呼ばれたのである。
そこで生まれた平等と統一行動は,神意であると見なされるがゆえに,内側に向けてはその契約の履行(=裏切らないこと)が,外側に向けては,その決議による要求内容が,神聖なものとして高く掲げられる。
著者はその有り様を,寺院の僧達や荘園内の「百姓」(中世の言葉でいう百姓。つまり自作農と地主クラスのみであって,下人や小作人を含まない)達,あるいは同じ地域に住む武家領主達など,さまざまな人々によって結ばれた一揆の例に沿って追求し,その契約の内容や形式を見ていく。誓約時に鐘を撞いたり,揃いのマークを身に着けたりと,象徴的行為はさまざまだ。
さらに,百姓一揆の記号としてよく描かれる簑笠や筵旗が,自分達の身分を超越するための変身であるとともに,折口信夫の民俗学研究において神ないし鬼の姿と見なされるといった指摘は,実に興味深い。これが正鵠を射ているとすれば,一揆を結んで行動する人々は,まさしく神(ないし鬼)と共にあるわけだ。
さて,一揆が中世の人々にとって臨時措置にすぎないのであれば,そういう時代のそういう習俗でした,ということで話は終わりだ。だが,この本では控えめながら,一揆が新たな時代につながるという,勝俣氏のトータルな説の前提部分が示されている。それは享禄5年(1532年)に結ばれた,毛利氏の重臣32名による一揆契約状を扱ったくだりにおいてだ。
オーソドックスな国人一揆の契約状であれば,その契約に対する違反者は,一揆の全成員による制裁を受ける旨が記されている。ところがこの一揆契約状では,違反者への処罰が共通の主君である毛利氏に委ねられている。つまり,一揆契約が作り出した公正・公平つまり「公」の機能を取り込むことで,戦国大名の権力が形成されていくのだという展望を,勝俣氏は描いて見せたのである。
戦国時代を扱った概説書を読んだことのある人ならピンと来ると思うが,勝俣氏以前の説では,国人一揆のコミューン(横の関係)を,戦国大名に組織された縦の関係が打ち破っていくことで,中世が終わりを告げると理解されていた。実際,「天下統一」における「国人一揆状態」はゲームシステム上,戦国大名勢力がその国の過半を制したところで生じる,国人領主達の反大名家同盟を意味する。ここには,旧来の国人一揆観が色濃く反映されているわけだ。
ところが毛利氏の例を見る限り,国人達はその相互関係を維持したまま,戦国大名を裁定者として仰ぐようになっている。武力平定に力点を置いた戦国大名権力(の形成過程)の理解は,大きく誤っているか,少なくとも一面的にすぎるのだ。
中世社会観,戦国時代観に大きな変更を迫った勝俣氏の研究に触れるためのとっかかりとして,この本は現在入手しやすく読みやすいものの一つだ。網野善彦氏を含めて「東大中世史の“四人組”」の一人とも呼ばれる氏の,民俗学/人類学の知見を援用した研究の一端を平易に読むには,最適な選択肢といえよう。